手早く着替えたつもりだったのだけれど
蘭世がプールサイドに立ったとき、彼はすでにひと泳ぎし始めていた
昼間のそれとは異なり、しんと静まり返った夜の校舎は
なんだかとても不思議な空間に思えた
しばらくそれを眺めて、すぐさま視線を泳ぐ彼の姿へと戻す
ウォーミング・アップも兼ねて、流す程度のゆったりとした泳ぎ
水をかくクロールの腕が、まるでお手本のように、すうっとまっすぐ伸びる
その動きにあわせて、ぱしゃりと跳ねる水の音だけが、あたりに響いていた
ここ最近俊は、トレーニングのためと称し
夜間、学園のプールを借りて泳いでいる
若き新鋭・高校生プロとして、彼自身の名ばかりでなく
ポーリア学園の名をも轟かせた彼の環境を慮って
夜間のプール利用の話を持ちかけてきたのは学園側のほう
そんな優遇措置に寄り掛かってしまうのは、性格上、少々気が引けたが
背に腹は替えられぬというヤツだ
なにかの話題のついで程度に夜のプールの話になり
じゃあ来てみるか そんな誘いを軽く言い放たれたのは、それから一週間後のこと
いつもなら会えないような時間帯にまで会える、その嬉しさはもちろんだけれど
普通なら足を踏み入れることもかなわぬ、夜の学園への興味からも逃れられず
ふたつ返事でやってきてしまった
第二コースに触れる手が伸び、ぷはっと息を吐きながら彼が水から浮かび上がる
蘭世の姿を認めると、再び潜ってコースロープをくぐり、プールの端の梯子を上った
フェンスに無造作に掛けられたタオルを持ち、蘭世はあわててそちらへ駆け寄る
「サンキュ」
「うん。……真壁くん……わたし、ほんとに来ちゃってよかったの?」
「……………」
ふたつ返事でやってきておきながら、ずっとそれが気にかかっていたのだ
プールを拝借する、その理由はトレーニングの一環で
その原則は“ひとりでの利用”
ひとりだけではない だけならともかく、異性を連れ込んでいるなどと知れてしまったら
(俊と蘭世との関係はこの際考慮されよう筈がない)────
「まあ……バレなきゃ済む話だしな。ところで……」
「………な、なにっっ!?」
俊はそこで言葉を止め、蘭世の姿を頭のてっぺんからつま先までじっくりと眺めた
そしてため息混じりに苦笑する
「…………もうちょっと空気読めよなぁ……なんでこんな時にスクール水着なんだよ………」
「!! だ、だって………!!」
蘭世が纏っていたのは、紺色で何のひねりもセンスも見て取れない、強いて言えば
学園指定という点だけがある意味プレミアかもしれない、スクール水着だった
帽子を被っていたりしない分、まだ救いようがあるというべきか
確かに、家を出る直前まで迷っていたのだ。今年新調したばかりの水着を持つべきか否か
けれどふたりきり、しかも夜。そんなときに
一般的に見れば控えめだとはいえ、少なくともスクール水着よりは露出が高いのであろう水着を身につけるのは
いかにもな感ばかりが先立ってしまい、やはり気が引けた
──────それに
「…………まあ、こんな塩素くせえとこで気合入れなくてもいいけどな」
そう言って彼は笑った
この夏、ふたりでどこかへ行けたなら
そう思っているのは蘭世だけの話ではないのだ
「そういえばおまえ、ちょっとはまともに泳げるようになったのか?」
ふと思い出したように俊は問う
クラスは男女混合とはいえ、体育の授業は2クラス合同・男女別カリキュラム
中学校の臨海学校以来、俊は蘭世の泳ぐ姿を目にすることはなかったのだ
平泳ぎと呼ぶにはいささか不安の残るスタイル、且つ、結局溺れてしまったとはいえ
それなりに浮かびそれなりに進めていた………はず
しかし、プールの縁で座り水に足を遊ばせていた蘭世の動きは
その問いに反応してぴたっと固まった
「………………」
「………なんだその沈黙…………おまえ、まさか」
「え〜〜〜〜〜〜っと…………」
「えっと……って……。女だって体育で水泳やるだろ? どうしてたんだよ今まで」
「…………っっ………女の子は、プールに入りさえすれば、単位もらえるから…………」
「………………」
俊はしばしあっけにとられたあと、思わず天を仰いだ
利用する側がこれでは、潤沢に取り揃えられた設備も哀れでならない
これだからお嬢様学校ってやつは……。 と、脇道に逸れてしまいそうな心を抑えつつ
俊は本題───蘭世のほうにくるりと向きなおる
「人がせっかく教えてやったのに……ほれ、来いっ」
「え!? ………っっ」
その声に促されるまま、蘭世もしぶしぶプールへ浸かる
心臓に遠い部分からぱちゃぱちゃと水をかける、その律儀さがなんだかおかしかった
「で。………とりあえず、泳いでみろ」
「……………………」
「うん?」
「………ビ、ビート板……とか………」
「んなもんあるか! ……ったく……支えててやるから」
「う〜〜〜〜〜〜……」
涙目の、恨めしそうな顔で俊を眺めて、ようやくぱちょぱちょと水をかき始める
すがりつくように握られた手を引きながら、俊は後ろ向きに進む
泳げない者特有の、かいてもかいても前に進まない、無駄に力だけが入ったばた足
あの頃と比べて本当に進歩していないなと、妙に懐かしく思い起こされた
「足首もひざも曲げねえで、こう……膝じゃなくて脚のつけ根を動かすんだよ」
「んっ」
水につけていた顔をあげ、ぷはっと息を吐き、また顔をつける
ほどなくして俊は、腕にかかる力がすうっと軽くなるのを感じた
………………おっ
コツを掴んだのか、それまで引いていたのが自力で進むようになり、少しずつスピードが出てきて
むしろ自分が進行の邪魔をしているような気にさえなる
50メートルプールも残すところ数メートル。そろそろ丁度よい頃合いかもしれない
「!! や……やだっっ! 離さな……!!」
「うわ!?」
──────と。俊が手を離した途端に蘭世はバランスを崩した
落ち着いて立ってみれば、胸まで程度の水かさしかないというのに
パニック状態に陥ったのか、がぼがぼと水を打ちもがく
「お………落ち着け、江藤!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」
むちゃくちゃにばたつかせる腕をかいくぐって腰を掴む
溺れた者を助けようとした、その者までが道連れになってしまう───その理由が判ったような気がする
我を忘れてしがみつこうとする力は、いつものそれとは段違いに強く
細い身体は、水の中だというのに妙に重く思えた
上り調子であったとはいえ、目算を誤った自分に責任を感じつつ俊は
蘭世の身体を支えつつ、なんとかプールの縁へと辿りつく
「…………………」
「……大丈夫か?」
「………………っっ……」
腕の中、肩で息をする蘭世の顔を覗き込む
顔をまっかにしてがくがくと震えたまま、声も出ないといった様子で
改めて俊は自分の迂闊さを呪った
ただ抱きしめて、時たま背中を軽く撫でながら、呼吸が落ち着くのを待つ
しばらくして蘭世は、小さくほっとひと息つき、ゆっくりとその顔をあげた
「……怖かった……よな。すまん………」
「う、ううん!! だいじょうぶ! ちょっとびっくりしちゃった……だけ。ごめんなさい……」
「………………」
「あ、あの……わたしもちゃんと、泳ぎの練習するね! ほら、また溺れちゃったら困るしっ」
その手は俊の腕をしっかり掴んだままだというのに
俊の言葉を即座に否定し、無理矢理に笑顔を作って沈黙を破る
そんなことになれば、何に代えても引っ張り上げる心づもりではあるのだけれど
改めてそれを言葉にする必要はない
心持ち背を撫でる手の力を強めつつ、いつもどおりを装って憎まれ口を叩く
「………練習中に、溺れんなよ」
「あ───、ひどいっっ。頑張るもんっっ」
「まあ、ビート板探してきてやるから、しっかり掴んでおくんだな………って、あ」
「え?」
そのとき、フェンスを通して細い光が差し込むのが見えた
周囲を探るように走るそれは、オレンジがかった懐中電灯の灯り
俊が夜間利用を始めてからというもの、それは定期的に回ってきており
そっと時計を見やると、いつもそれがやってくる時刻とほぼ同刻を指していた
「……やべっ。見回りだ」
「ええっ」
反射的に蘭世もろとも身をかがめる
もし万が一の場合でも死角になるよう、蘭世をプールの縁側に寄せて、息を潜めた
「(……と、いうか……ま、真壁くんまで隠れなくても……)」
「(………………。だよな……つい…………)」
さくさくと進む守衛の足音が近づき、光がうろうろと走る
それを背に、目だけをきょろきょろさせながら蘭世は、俊の腕の中でじっとしていた
「………………」
小さくもれた息が胸にかかる
水に濡れていたはずの肌は、持ち前のきめ細かさと暑さとですっかり乾いてしまっていて
さらりと触れ合うその感触が心地よかった
してはいけない そう言われれば言われるほど、したくなるのが人の常
どう考えても、お互い下手な刺激をしあわない方が身のためである今のような状況においてもそれは同様で
俊は無防備な首筋に静かに唇を寄せた
「(ひゃ…………)」
「(………シッ)」
思わず肩が震える
その表情までは見て取れなかったけれど、小さく囁くようなその声色から
彼が薄く笑っていることだけは、なんとなく判った
身を隠していなければいけないはずなのに、そんなことをするなんて、ある意味イジメだ
逃れようにも、ほんの少しの水音でも立ててはいけない そんな焦りだけが先行して
身動きひとつ取れず、つかず離れずで降りていく唇の動きをただ受けていた
「(見……つかっちゃう、よう………)」
「(……………頑張れ)」
「(が、頑張れ、って…………!!)」
他人事のように囁くと俊は音もなくずい、と進む。筋肉に覆われた固い腿が脚の間を割って入り
自然と壁面に押し付ける格好になった
両のストラップに手がかかり、ゆっくりと引き下ろされていく
水着を通してではなく、じかに冷たい水が肌に触れるのは、不思議な感覚だった
そんな余韻にひたる間もなく、俊の指が乳房に触れる
芯を指の腹で捏ね、もう一方はいったん口をつけようとして───改めて水に浸かっていることを認識し───やめて
軽く肩を押し胸を逸らせ、水面からちょこりと顔を出したところをあらためて吸いついた
ちょうど背後のあたりでとどまっているのであろう気配に、耳を傾ける余裕が次第に薄れていく
かろうじて目にとまる光だけが、蘭世に今の状況を示すサインとなり
──────けれど、胸元から唇に標的を変えた俊の唇・顔で、その視界すらも塞がれてしまう
声が漏れたら漏れたで、瞬時にテレポートでもしてしまえばいい
そう気づいてしまった今となっては気楽なものだ
どちらかといえば自分のために息を潜めている そんな気持ちをある意味利用してしまうのは気が咎めたけれど
良心の呵責を簡単に凌駕するほど、その姿は俊の全てを惹きつける
初めのうちは、軽く触れる程度でとどめるつもりだったのだ
なのに今は、胸の下あたりでとどまっていた水着を掴みさらに肌を露出させ
ぴたりと重なる感覚を楽しんでいる
しばらくプール周辺を照らしていた光の筋とともに、足音が遠ざかっていく
それを合図に俊は唇を離し、まるで自分の意思はないかのように問いかけた
もう囁きかける必要はないのに、耳元で小さく
「(…………続きは、ここで?)」
「(…………………!!)」
つめていた息を吐き出しながら、蘭世は俊の肩をぽくぽくと叩いた