シークレットコードは桜色

「ことしは桜が見れないのね」
「ん?」

穏やかな光が差し込む窓から外の景色を眺めながらふと彼女が言った

「あなたの誕生日が近くなるといつも桜が咲いて、お天気が穏やかだと、誕生日まで花が散らずに残って……なんか幸せな気持ちになるのよね、桜って」

花を見て季節を感じるなどと風雅な素養がない自分でも、桜は季節を感じさせられる花だった。自分の誕生日とセットだからというところも大きいけれど

こちらの世界の気候は、全期的に長閑な推移を示すという。そんな中で過ごしているせいもあり忘れかけていたのだが、日付的にはそろそろ自分の誕生日がやってくる。もともと例年行事として、魔界の王たる弟の生誕を祝うセレモニーが盛大に執り行われる予定があるそうで、王のとなりに席を用意するから臨席しないかと誘われたのを、丁重にお断りしたのはつい先日のことだった

公式な行事ごとというと、もれなく例の扮装がセットでついてくる。そもそもこの年になって祝うもへったくれもないとはいえ、なにを好き好んで自分の誕生日にコスプレまがいの格好をしなければならんのだ。あいつら絶対、こちらの反応を見て面白がってるだけだ

───と、胸の内で延々と毒づいていたせいで思いのほか長くなった沈黙の理由を、彼女はすこしずれた方向に解釈したらしい。明らかにしゅんとした顔でこちらを見た

「ごめんなさい……」
「え?」
「せっかく……世界チャンピオンだって……」

彼女の言葉は語尾まではっきりと続かなかったが、言いたいことは分かった。いま自分たちがここに───魔界にいる理由、それはあまりにも不運なできごとだった。もしかしたらいままで何事もなくあちらの世界で過ごしていられたことのほうが奇跡なのかもしれない。頭のどこかで常に思っていたのに、見ないようにしていたことを現実として突きつけられた。けれどそれは

「おまえが謝ることじゃない。鈴世も悪くない。……念の為だけど、あいつにそんなこと絶対気取られないようにしろよ」
「それはもちろん、気をつけるけど……」

幾分落ち着いてはきたものの、どこか不安定な危うさを残している義弟。彼女もこの件で義弟を・誰かを責めるようなことを言わない・思ってもいないことは十分分かっているし、つとめて明るくふるまっている彼女にさらに無理を強いるのは酷な話だと思うのだが、聡い義弟のこと、彼女が沈んだ面持ちをしていればすぐに気づき、責任を感じて気を揉む、そしてそれに気づいた彼女はそうさせてしまった自分に責任を感じて……と、悪循環のループに陥るのは明らかだった。けれどそもそもこの騒動には自分も一枚噛んでいて、覚悟のうえで家族一同大立ち回りを演じたのだから、そこまで義弟が責任を感じる必要はないのだ。それは彼女も同様に

とはいえ、彼女が態々ボクシングのことを挙げた気持ちも分かる。分かるというか、その気持ちはとてもありがたいことなのだが……
自分が腰かけているソファと彼女が立つ窓際と、ほんのわずかの距離ではあるが、その距離ですらも、自分の真意を誤解なく話すための弊害になりそうな気がした。胡坐で座っていた足を下ろし、座面をぽんぽんと叩いて促すと、彼女はおとなしくやってきてとなりに腰を下ろした

「……おれは、ボクシング絡みのことで能力を使ったことは一度もないんだけど、気づいてたか?」
「もちろん! 当たり前じゃない」

ずっと心血注いできたのを一番近くで見ていたのだから。そう言いたげな目で彼女はこちらを見た

「うん。……で、おれは、能力なしの自分が世界に通用した時点で、既に満足してんだよ。別に誰かに評価されたいわけじゃない」
「でも……!」

答えが分かっていて敢えて確認したのは、他の誰かからの「評価」は要らないといいつつも、彼女にだけは「知って」いて欲しいからだ
たしかに、かつての自分にはボクシングしかなかった。けれどいまはそれだけじゃない。世界に勝って、自分にも勝って、それを彼女が知ってくれている。それ以上他に何を望めというのか。だからそんな、表面張力いっぱいに涙をため込んだしんどそうな目でこっちを見ないでくれ

「泣くなよ……。えっと何の話だっけか、桜? おれの誕生日の話か」
「う、うん……ごめんね」

ハンカチやティッシュを探すよりこちらのほうが早い。肩を引きよせ、それぞれの涙を唇で啄むと、彼女は少し落ち着きを取り戻したようだった。ぱたぱたと顔をあおいでさらに気持ちを切り替えるそぶりを見せる

「そうなの、お誕生日。こっちだと、お料理くらいしか用意できなそうで、プレゼントが……毛糸はいっぱいあるけど、マフラーとかはなんか違うし……。ああ、もっと早めに用意しとけばよかったなあ」
「いや、そりゃ無理な話だろ」

彼女の言葉に思わず吹き出してしまう。いま自分達がここにいるのは予想できそうでできなかったアクシデントだ。それを予知して早々にプレゼントを用意できるのであれば、そもそも自分たちはここにいない

ソファの横で優しく揺れるゆりかごですやすやと眠る吾子に掛けられたおくるみは、彼女の手編みだった。不器用な自分には天地がひっくり返ってもできないような、こまごまとした模様の入ったモチーフとかいうものを無数に編み上げつなげていき、あれよあれよという間になんだかすごいものができあがって仰天したのは記憶に新しい
そんな職人技を駆使する姿を眺めているのはそれだけで幸せな時間であったが、かといっておくるみをもらっても困るし、マフラーをもらったとて今後こちらの世界で使う機会に恵まれるかどうか。そもそも育児に奔走する彼女にそんな時間はないし、それ以前にそんな暇があるならゆっくり寝ろ、という話だ

「別に……とりたてて欲しいものはないな。いつもいろいろもらってるし。それに今年は……母体ともども無事に卓を生んでくれたし」
「それは……! 卓はプレゼントに入らないわ! わたしのほうこそ幸せだし! それ以外でなにか! ない!?」

そう言われましても。素材も手段もない、サプライズがうまいアイデアマンもお手あげだと示されたこの状況で、一体どうしろというのか

「なにか、ねえ…………あっ」
「えっ」

とはいえ、考えてみれば……あるといえば、あった。「物」では、ないのだが。そして寝ろと言った(言ってない)口が渇かぬうちにこんな要望を思い浮かべてしまうのは、我ながらいかがなものかと思うのだが

「いま、なにか思いついたでしょう。なあに?」
「いや……。やっぱりまだ、いい」
「まだ?」
「…………っ」

そう、シャツの袖口をきゅっとつまみながら、臆面もなくまっすぐに目を覗き込んでくるのは、鈍いのかそれともわざとなのか言わせたいだけなのか、どれなんだ。もしかして全部か。……そうかも……
偉そうにとなりに呼びつけておいて何だが、いまの至近距離でお伝えするのはかなり勇気がいる……というか、無理! 彼女の肩に手をやり、前のめりになっている姿勢をさりげなく戻してやりながら、きわめて平常心を装って……平常心……ポーカーフェイス……いや、だから、無理だって!

「その……体に……というか、心身ともに問題がなかったら」
「?」
「そろそろ……ええと」
「あっ……!」

もだもだしながらようやく切り出した一節を受け、ようやくなにかに気づいたらしい彼女の頬がみるみるうちに赤く染まる。……染まったと思うのだが、顔をおおった手の指と指の隙間からチラ見してなんとなく見えた限りなので詳細は分からない。自業自得なのだが、なんだかどっと疲れてきた

「ご、ごめんなさい! そうよね……! あ、あの、そういうのって、メヴィウスさんに訊けばいいのかな!? それとも、おかあさん!? そ、そうだ、今度メヴィウスさんに看てもらうから、その時訊いてみる!」
「いや両方やめてくれ……社会的におれが死ぬ……」

普段はとりすました顔をしていながら、実はそっちのほうは涎を垂らしながら「おあがり」をうずうずと待ちわびていますと言っているようなものではないか。実際そうなのだが
とはいえ。こういう場合、世の中の夫婦はどうしているのか。順当にいったら医者の許可待ちか。医者……子をとりあげてくれたのは彼女の言うとおりメヴィウス……こちらから尋ねるのではなくて、もっとこう、できれば遠回しに気を利かせてくれというか……。世界が狭いというのはこういうところで問題になってくるのか……できればもうちょっと違う案件で知りたかった……

「た、たぶん問題ないと……思うんだけどね!? そろそろ2ヶ月、だし……痛いとかも……その」
「いや、素人判断はやめとこう……すまん、変なこといって」
「変なことだなんて! だ、だってわたしもそろそろ…………かなって!!」
「…………そう……」
「……っは、はい…………」
「………………」
「……あっ!」

柄にもないことを言い過ぎてそろそろ限界が来たということか。あまりにいたたまれなくなり、彼女を抱き寄せてみた。いまの自分がどんな顔をしているかなんて想像できないししたくもないし、この期に及んで体裁を取り繕っている場合でもないのだが、少なくとも彼女には見られなくて済む

この程度の抱擁なら、特に意識することもなく日常的に行っていた。当然のことながら、忘我の境で互いに互いを求め合い、ときに嗜虐的な衝動や眩暈に似た恍惚を絡め合うような刺戟こそないものの、例のごとく甘く安らぐ桜のような匂いを嗅いでいるだけでなんだか気力が湧いてくるし、単なる性欲処理だけをいえばそんなものはどうにでもなるし、どちらかというとこれが一番の懸念材料だったのだが、彼女もまあまあやぶさかではない態勢であることを判明せしめたのだから、まあいいか……
と、思いかけていたところで彼女はなにか名案をひらめいたようだ。さすがアイデアマン

「そのとき実際におかしなところがあったら、あなたが治してくれればいいんじゃないかしら! ほら、舐め……。あっ」
「~~~~っ」

それはおかしなところがあってもなくても頼まれなくてもそうさせていただくけれどもそうじゃない!
互いに変なテンションだったところに不意打ちの言葉がクリーンヒットして、社会的に死ぬ前に腹筋が死ぬ思いをしながらしばらくふたりで笑っていた








心のほうはともかくとして、体のほうも何ら問題なしとの確認をあの手この手で遠回しになんとか経て、なんとなくを装いつつも結局は示し合わせてその日が解禁日となった
問題ないとはいえやはり彼女の夫として、長い間おあずけを喰らっていたとはいえ、初っ端からトップギアでぶっ飛ばすような野蛮な真似はできないと初めのうちは思っていたが……思っていたはずなのだが……熱を帯びた吐息とか途切れ途切れに喘ぐ声とか苦くて甘いとろりとした蜜とか、触れているだけで頭の芯が痺れ、予定より早く我を忘れてしまったので、実際にそんな紳士的な立ち振る舞いをできたかどうかは分からない

桜は、散る直前にはその中心が赤くなるという
今日に限らず、春の夜に彼女を抱いているといつもそれを思い出す

その瞬間に至るまでの行程で血管が収縮するとか、その他自分には考えも及ばないような医学上のきちんとした理由による現象だということは百も承知なのだが、彼女の中でなにかが爆ぜるのであろうその直前、白い肌がほんのりと朱に染まる。それがひどく情欲を掻き立てる
あまり見てくれるなと声にならない声で訴える目と目が合ったけれど、ずっと拝観していたくなるほどひとのことを惹きつけるほうが悪い。もっと奥へ、行けるところまで。あますところなく味わい尽くすべく、壊れた玩具のように彼女の中への抽挿を繰り返した

濃密な夜が明けるにはまだ早い