「……………ぷは」

肩までたっぷりと湯に浸かり、卓は心からリラックスしつつ大きく息を吐いた

学生の本分は学業です───そんな言葉を尻目に
どちらが本業なのかわからなくなるくらい日々バイトに明け暮れ、身体はなかなかに疲弊しつつも
親の援助に頼りきらずになんとか二人生活できるようになった
始めのうちは、正直どうなることかと思っていたお姫様も、ある程度の生活能力を身につけつつあり
特に料理───殊、卓の好物のハンバーグについては
三日おきにこっそり習いに行く(口には出さないが、バレバレだった)先生の教えがいいのかどうなのか
味つけといい肉のほぐれ具合といい卓の好みのど真ん中をつく仕上がりを見せていた
そればかりか、今日に至っては、卓がクタクタの身体を引きずるようにして帰宅するタイミングにあわせて
夕食だけでなく風呂の準備まで済ませてあり

『ちょうど今いい湯加減だから、先にお風呂どうぞ』

その言葉に促されるままいそいそと風呂に入り、熱めの湯加減が好きな卓の
これまた好みど真ん中な温度に調整された湯に浸かっているわけである

「………………」

狭い浴室にたちこめる、入浴剤の甘い香り
そういえば、部屋に置いてある小さな一輪挿しに花が絶えたのを見たことがない
もし自分だけならば絶対に気にもかけないようなものがこの部屋に増えていくのは、なんとなく嬉しい
家を出ると言ったとき、かなり不機嫌な顔で自分を一瞥しておきながら実は
高校生のころからひとり暮らしで、当時の恋人───母と通わせ婚のようなことをしていたという父も
当時こんな気持ちだったのだろうかと思った
そう遠くもない将来、自分たちも父と母の築いたような家庭を持つことができるだろうか、などと
絶対口には出せない情景を胸の端にほんのりと浮かべながら

そんなことを考えているうちに、ちょうどいい塩梅に温まった身体を
そろそろ洗い始めようかと、卓が湯船から出ようとしたその瞬間
ドアがノックされる音が響いた

「………え」

自分が入っている浴室のドアをノックすることができるのは、ただひとり
とは、いえ

「………卓………?」
「うわあ!?」

気のせいかと確かめるべく、そうっとドアを開け外を覗いた卓の目の前に
その“ひとり”が現れた
豊かな髪を頭のてっぺんにくるりとまとめ、タオルを一枚簡単に巻いただけのその姿に
思わず飛びずさりそうになる
その肌を目にするのは、なにもこれが初めてのことではないのでいいのだが
なんとなく、風呂は別々・ひとりずつという暗黙のルールができつつあった(そしてそれに特段不満もなかった)現状
そんな格好で彼女が立っていることそれ自体が予想もつかないことだったので

「な、なにしてんだおまえ」
「なにって……。背中を流してあげようと思って」
「背中? あ、ああ……」

卓の返事を待たず、ココはするりと浴室へと滑り込む
なにがそんなに楽しいのか、なにやらニコニコと上機嫌で
壁にかけられたスポンジを手に取り、手際よく泡立て始めた

そんな姿を呆気にとられながら眺めつつ、どうしたものかと立ち尽くす卓に
からからと風呂椅子を引きずって座るよう促し、十二分に泡立てられたスポンジ片手にココは
満面の笑みを浮かべながら声高らかに言い放った







「いらっしゃいませ、お客様。こういうところは、初めてですか?」
「…………は?」

──────いらっしゃいませ?
どこからツッコめばよいものか。悩む間もないまま容赦なく続けられた言葉に
卓は目が点になった

「わたし、ココと申します。どうぞよろしくお願いします」







「な……何の真似だよバカ!」

自分を取り戻すまで要すること約十秒。ようやく我に返った卓は
小首をかしげた笑顔のまま卓の反応を待つココを振り返る
風呂椅子からずり落ちなかったのが、我ながら不思議なくらいだ

「へ? なにって……男の人の背中を流してあげるときは、こんな挨拶をするって聞いたんだけど……」
「しねえよ! だいたいそんなガセネタ、どっから仕入れてきた!?」
「えっ………」

きょとんとした顔のココが情報源として挙げたのは、某人気深夜番組の名称
タイマー録画のセットを失敗し、誤って録画してしまったテープを
つい最近までデッキに残しっぱなしだったことを思い出した
そして、最近ココがその手の機器の操作に長け始めていたことも

………まずった………
卓はがっくりと肩を落とす

「な、何か……違う、の?」
「全ッ然! 違う!」

ただならぬ卓の様子に、何がなんだか判らないながらもココは動揺し始める
確かに、幼少の頃からこちらの世界にちょこちょこ顔を出していたとはいえ
その手の世俗的知識からは隔離された空間のみだった彼女にしてみれば
(愛良あたりから余計な知恵をつけられているかもしれないが
そこまで具体的なことを知っているとも思えない)
番組で放送されていた内容について、正しく理解することなど不可能に近いだろうけれど

「全然 って……じゃあ……??」

めげるどころか、むしろ興味津々で尋ねてくる相手に対し
果たして自分はどこまでどうやって説明すればよいものかと
思わず卓は天を仰いだ

「じゃあ、あの番組でやってたのは、なに!?」
「……………」
「ねえ、卓ってば!」
「………カンベンしてくれ………」
「え!? なあに? 聴こえないわよっ! 卓!!」

『ぼくがそうしたように、ココも、人間界に行っていろんなことを勉強してくるといいよ』
ふたり暮らしを許してくれたときに彼女の父親が口にした、この台詞の効果は絶大だった
額に手を当て視線をそらす卓の心境などものともせず、追究の手をゆるめようとしない

職業に偏見があるわけじゃない(むしろ、すごいと思う)けれど
目の前の、心はおとぎ話から飛び出てきたばかりのようなお姫様には
その詳細はきっと、刺激が強すぎるだろうし、どう伝えるべきか────

───とか、なんとか
卓は卓なりにいろいろ考えたのだが
明らかにイライラし始めた声を上げながら、両肩を掴みがくがくとゆさぶられ続けるうちに
……なんだかもう、どうでもよくなってきた

「え────っと……」
「!」

ようやく開かれた重い口に、ココの目が希望に満ちて輝く

「……おまえがいまやったのは、そういう職業に就いているのひとたち専用の挨拶」
「ふうん……? ……あ」

巻かれたタオルをぱらりと手に取り、適当にたたんで湯船の縁にひっかける
後ろ手でシャワーの蛇口をひねりつつ、空いた手で肩を引き寄せ
湯が十分にあたたまったのを見測り、抱き締める格好でココの背中に流す

「あ……の、卓?」
「貸せ」
「え」

妙に大事そうに握り締めたスポンジを奪い取り、その背を擦る
わしゃわしゃと、円を描くように

「卓! わたしが卓の背中を流しにきたのにっ」
「あ───……。おれは、あとでいいや」
「え〜……。っあ」

唇の先だけで白い首筋に触れると、それに合わせてココの背が小さくふるえる
“あ”の形で止まった唇をふさぐように、反らせた顎を追い、キスを落とした

喉元から鎖骨にかけてのラインを指で辿りながら、あわあわの背中を撫で回す
膝立ちで身体を支えていた力が抜け、床にぺたりと座り込んだのに合わせて
卓も風呂椅子から降り、床に座り込む
肩に額を預けさせ、指と指を絡めると、泡に濡れた卓の指の、妙な滑りやすさがなんだかおかしい
ゆっくりと重心をそちらに傾けつつ、背を壁にぴったりとつけさせたままそれぞれの腕を開く
両耳に触れるか触れないかのところに押し付けると、無防備な状態の白い肌
卓は目の前のふくらみに迷わず吸いついた
その瞬間、ココの肌は楽器に変わり、浴室に隠微な音を響かせる

「た…………っ」
「………………ん?」

呻くように自分の名を呼ぼうとした彼女の声に、卓は顔を上げその目を覗き込む
潤む瞳に宿すのは自分の姿のみ。半開きになった唇をもういちど味わうべく、卓は唇を寄せ───

「そ……んなことよりっっ、さっきの話! その職業ってナニ!?」

とんでもなく屈辱的な言葉に、卓は思わずずっこけ気味に顔をそらし、額を壁に思いっきりぶつけた

「…………いてぇ………」
「? なにやってんの」
「いや……もう、いい………」

思いのほか強くぶち当たった額がじんじんする
それを押さえながら卓はむっくりと起き上がり、苦々しいながらも話題を再開させた

「……かいつまんでいうと、世のヤローどもに夢を売る仕事」

かいつまみ過ぎた感はあるが、実は結構真理をついている、と、思う

「夢!? へえ〜〜!! すごいわね!! 
背中を洗ってあげるだけで、相手に夢をあげちゃうなんて!!」
「ヤローは基本的に単純だしな」
「ふうん………」

文字通りキラキラと瞳を輝かせたのもつかの間、ココは真剣な面持ちになり卓の顔をまっすぐに見つめる

「卓も……そうなの?」
「おれ!? ………は、はあ……おれ、は………」

純粋に、興味はある
何故ならヤローは基本的に単純だから
────けれど、別に他で用立てしなくても。そんな卓の返事を待たず、ココは自信たっぷりに宣言した

「一応言っとくけど、卓はほかで夢を買ってくる必要はないからね! 
いつでもわたしが洗ってあげるから!」

……わかっているのかいないのか……。なんだか疲れがどっと出てきた肩を押さえつつ
卓は力なく相槌を打つしかできなかった

「……はあ………」
「ふふん。わかったなら、さっさと椅子に座ってむこう向いて!
こんな体勢じゃ、洗いづらいったらないわよまったく」
「…………………はあ…………………」

二回目の相槌はため息よりもはかなく散る
卓としてはうやむやにしながらうまくそちらの方向に持っていったつもりだったのだが
あくなき探究心の前に、みごと玉砕
そこはかとない敗北感に苛まれながら、ココの言うがままに風呂椅子に腰をかけ、くるりとむこう側を向く
背後でしゃくしゃくとスポンジの揉まれる音。あえてそちらを見なくとも、嬉々として泡立てるさまが目に浮かぶ

「んじゃ、いきま───す」
「……はあ………。って、え!?」

先刻となんら変わらない声のトーンで背中に押し付けられたのは、スポンジではなく
豊富に立てた泡を一面に乗せた上半身
もたれかかるようにぴったりと隙間なくくっつき、一拍置いて、ゆるゆると上下に這うように動く
泡と湯と体温とが混じりあった生ぬるい感覚など生まれて初めてのもので
卓は思わず声を上げる

「う、ぎゃああああああああああっっ!!」
「きゃあっっ!! な、なんて声上げてんのよ!?」
「お……、おまえ、ホントは知ってんだろ!! 全部!!」

振り向こうとする肩をがしっと押さえ、ココは卓の耳元で不適に微笑んだ

「“知ってる”……って……。さあ、な───んのことかしらっっ」
「ココ──────!!」

肌から肌に移される、ふわふわの花のような泡にまみれて
長い夜はゆっくりと更けていこうとしていた