試合の日程が近づくと
がんばって のひとことに合わせて
それまではあまり会わない
気を遣ってそう言ってくるのはいつも彼女のほう
確かにそれまでの間自分は頭の半分以上それにとられてしまうけれど
なにもそれだけに全てを費やしているわけではない
ふっと息を抜きたいときだってあるし
そういったとき、傍らに彼女の姿が在ったならどんなにか救われるに違いない
そう思いながらも
息抜きばかりしてはいられない状況のなか、そのひとときのために曖昧な返答をしておき
自分の都合のついたときにばかり呼びつけるというのはあまりに失礼過ぎる話だから
『……悪いな』
顔を反らしたまま、言葉少なに返してしまっているというのが正直なところ
目を見ることは、できない
目が合えばきっと、勝手な本音がもれてしまうから
それでも彼女はにこにこと笑う
『あっ。でもお弁当は届けておくからね。ちゃんと栄養は摂って……ね?』
届けておく
それは、バイトとジムとでくたくたになって帰る時間を見越し、敢えて外した時間帯にやってくるということ
単に外すだけではなく、俊がそれを口にするであろう時間帯も計算しているに違いない
彼女のぬくもりまでをも移しているかのようなその弁当はいつも
冷めすぎず固すぎず、いい頃合いの味
『最近はね、栄養素の食べ合わせにも頑張ってこだわってるつもりなのっ』
そう笑っていた彼女の弁当は、今日も昨日もその前も充分おいしいのだ、けれど
会えない時間が育てるのは、愛ばかりではない
募る想いは際限なく膨らみ、少しずつその質を変貌させていく
瞑った目の奥に映るその姿をひたすらに欲して、慈しみは狂気に変わる
目の前に置いておいた空の弁当箱を運ぼうとする、彼女の幻影を見てしまうくらいに
──────ん?
「!!」
「きゃあ!?」
思わず跳ね起きる。どうやらうたた寝をしていたらしい
その勢いに驚き、蘭世は悲鳴を上げる
「ああ、びっくりした……。起こしちゃっ……た?」
「お……おまえ、なんで……」
「ごめん…なさい……あの……ちょっとでもいいから顔を見たかったの……
明かりはついてるのに返事がなかったから、入っちゃった……」
ごちゃごちゃしたキーホルダーのつけられた鍵を小さく振ってみせる
それは顔から火が出る思いで渡した、この部屋の合鍵だった
「そしたら……そんな格好で寝てるんだもん、びっくりしちゃった
疲れてるの、分かるけど……ちゃんとおふとん敷いて寝なきゃ、だめだよ
いくら夏だからって……カゼひいちゃう」
「………………」
今ばかりでなく、子供時代も留守番が多く、チャイムの音には敏感なつもりでいた
その音も気づかないほど今の自分は疲弊していたのだろうかと、その事実に俊は愕然とした
プロと呼ばれるまでになったボクシングを今まで続けてきて、自分なりに判ってきたのは
闇雲に突っ走るスタミナそのものよりも、自己を調整できるほどの意思の強さと理解力のほうが重要であるということ
トレーニングもアルバイトも、焦る気持ちを抑えつつ、巧くシフトを組んできたつもりだったのに
バランスが狂うその理由は、ひとつしかない
「ついでだから、おべんとうばこ持って帰っちゃうね」
「あ、ああ………」
蘭世は弁当箱を手に台所に向かう
たとえば今だって。通常であれば
こんな時間にひとりで出歩くんじゃない と、まず開口一番で一喝していた筈なのだ
意地やプライドではなく純粋に、彼女の行動を諌めるために
それすらできないほど、今の俊には余裕がなかった
俊を包んだのは、会いたかったひとに会えたその喜びだけではない
「愛情いっぱいのおべんとうは、いかがでしたか? ……なあんちゃって」
「…………うまかった」
「へ?」
あわあわのスポンジで箱をこすりながら投げかけた問いへの
意外といえば意外な返事に、蘭世は思わず振り返る
その顔は、思いのほか近く───目の前にあった
「あ……………」
一瞬とまどいの色を浮かべた瞳を、見ないようにして唇を重ねる
蘭世の手から、スポンジがぽたりと落ちた
「……ま、真壁くん………っっ」
組み伏せた腕の中、身を固くしながら頼りなく自分の名を呼ぶ
その姿は、これ以上なく俊を煽った
ボタンを外す間も惜しく、シャツの裾とブラをムリヤリたくし上げる
こぼれ落ちた小ぶりな胸は、ひどく懐かしいものに思えて
夢中になって吸い、舌を這わせた
「……………っっ」
脚を撫で上げ、ショーツの足口から指を忍び込ませると
蘭世は、赤く染まった顔をふるふると振る
うっすらと涙でにじむ目元とは裏腹に、そこはまだ乾いたままで
迂闊に侵入したりすればどうなるか、それくらいは判っているけれど
ジーンズのジッパーを引き下ろしながら、白いショーツに手を掛ける
手のうちに小さくくしゃっと丸まったそれを投げ捨て、曲げさせた脚に腕をかけると
汗ばんだ膝裏が妙に腕に密着するのが判った
体の中心に自身をあてがい、ぐっと引く
蘭世は無言のまま一瞬身を仰け反らせ───みるみるうちにその表情は苦痛に満ちていった
「あ………い、いた………っっん、ん──────!!」
「…………っ悪、い……」
悲鳴を上げるその口をてのひらで塞ぎ、なおも俊は進みつ戻りつを繰り返す
俊においても、まったく痛みがないわけではないけれど
お互いの愛を確かめ合うような、優しい行為だけでは得ることのできない感覚が確かにそこには存在して
その衝動を留めることができなかった
少しずつそこが擦れ合う抵抗を弱めるのは
快感によって導かれる蜜ではなく、自己防衛のためだけに染み出した液
皮肉にもその潤みは俊の動きだけを助けて、一気に視界が真っ白になり
──────そして俊は、目覚めた
「………………え?」
ぼうっとした目をこすりながらあたりを見回すと、そこはいつもと何ら変わらない自分の部屋
蘭世の姿などどこにもなく、自分の服装も、バイトから帰ったときの格好と同じ
彼女が洗おうとしていたのを邪魔した弁当箱も、自分が突っ伏していた卓袱台に
おいしくいただいたときのままの格好で置いてある
「………………」
夢だと認識するのに、さほど時間はかからなかった
自分自身の宿す情欲に、嫌気がさすのにも
囚われるのも囚われる自分を直視するのも怖かったから
昔は、誰に対しても嘘をついた
嘘をつかなくてもいいのだと理解したはずの今も
根本的な部分は変わっていないのかもしれない
勝手に溜め込んだ黒い雲、それを吐き出すのが夢のなかで良かった──────それだけが救いだった
きっと海よりも深いであろうため息をつきながらふと外を見ると、すでに朝焼けの光が広がっていた
すべてを包み込む鮮やかな、けれどあたたかなその光は、他でもない彼女を思い出させる
いつもは、なんとなく足を止めて眺めてしまう情景も、今の俊にとっては
胸をちくりとさすもの以外の何者でもなく
揺れるカーテンを引きながら、窓に背を向けるしかできなかった