その公園は広くて静かで、トレーニングの締めには最適の場所なのだといつか彼は言っていた
ほんの少し湿り気を帯びた朝の空気が、肌にひんやりと心地いい
さくさくと芝を踏む音ですら妙に大きく響く静寂のなかを、蘭世は一歩一歩注意深く進む
別に悪いことをしているわけではないのだけれど
「……………
そう、よね。だって真壁くん、見に来るなとは言ってないしっ
…………会いに来いとも言ってくれなかったけど…………」
いけないいけない。最後のは言い掛かりだわ
蘭世はそれを追い出すべく、ぷるぷると頭を振った
試合の日程が近づくと
がんばって のひとことに合わせて
それまではあまり会わない 自分からそう言うようにしている
実際、お弁当を届けるのも彼の帰宅時間とわざとずらしているから
ここ二週間以上、顔を合わせていない
もちろん、彼の足を引っ張りたくないというのもあるけれど
そう“言えるようになった”一番の理由は
自分が相手を想う気持ちと、相手が自分を想ってくれる気持ちと
それらはぴったり同じなのだと思えるようになったことだろうと思う
けれど
ゆるぎない信頼と、寂しいと思う心のぶれとは
全く別のものだ
彼のことを思い起こすだけで、胸の辺りがほわりとあたたかくなる
そのくせ、ふいに涙がこぼれそうになったりもする
たいせつなものを持つということは、これ以上ないほどひとを強くするけれど
その実、不安定にさせもするのかもしれない
好きだとか愛してるとか、そんなしゃれた言葉はいらないから
ひとめその姿を見ることができたなら
そのために今日は目覚まし時計を二時間ほど早くセットした
もちろん、彼には内緒だ
突然自分が現われたら、彼はどんな顔をするだろう
ポーカーフェイスのままだろうか、ちょっと意地悪くニッと笑うだろうか、それとも
「………………」
──────それ以前に、彼がここを通らなかったらどうしよう……?
何の連絡も取り付けずに来たくせに、その可能性は全く考慮に入れていなかった
そもそも、いつも同じメニューとは限らないのだ
たまには他のところを回ってみようと思うかもしれないし
何か用事が入り、朝のトレーニング自体とりやめているかもしれない
こんなことなら、連絡しておけばよかった
でも、それでは邪魔をしないという大前提が崩れてしまう
ああ、だけど
「………………あ」
ぐちゃぐちゃと悩む蘭世をよそに、遠くから
土を蹴る軽快な足音がかすかながら聞こえてきた
じっと目を凝らすと、それは待ちわびたひとの姿
思わず蘭世は木陰に隠れ、息をひそめる
「……………………」
一定のリズムを刻んでいたその足音は、目の前に広がる芝の広場で止まる
そうっと覗き込むと、その場で軽く屈伸する姿があった
しばらく眺めていると、彼はふっとひと息ついて、肩に掛けたタオルで額の汗を拭う
その姿があまりに眩しくて蘭世は思わず手を握り締め、はじめて自分がタオルを持ってきていたことに気づく
見るだけ そう思いながらも結局は、無意識であれどうであれ
会うことを───彼の汗を拭うその瞬間を───想定していた自分が情けなかった
“わたしとボクシング、どっちが大切?”
本当はうっかりと口をついて出そうになる
だからいつも無理矢理の笑顔でごまかした
今の自分が苛まれているのは
より大切なのが自分ではないかもしれないという不安ではなく
より大切なのが自分だと判っていて、それでもなお
彼のお荷物になりそうなことを考えてしまう自分への嫌悪感
お互いの想いを確かめ合ったあの日から、不器用な彼は不器用なりに
都度、自分への気持ちを示してくれるようになった
その分、日に日に自分は贅沢になっていく
好きだと言ったら好きだと応えてくれる それだけでは足りないとは言わないまでも
たまには彼のほうから追いかけてほしいだなんて
ただの傲慢でしかないのだと、頭では判っているのに
無償の愛と称えられた過去の自分は、いったいどこへいってしまったのだろう
「…………帰ろう……かな………」
当初の目的は(建前とはいえ)果たしたのだし、なにより
弱りきった自分自身を自覚してしまった今、ここに居続けるのは嫌だった
次に会うそのときまでには、自分自身を立て直さなくてはいけない そう踵を返した瞬間
さくさくと芝を踏む足音がこちらへ近づいてきて──────蘭世は思わず駆け出した
「え!? お………おいっっ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
そうすれば、彼が追いかけてくるのは当然の結果だった
昔から運動は苦手ではなく走るのも速いほうだったとはいえ
日頃からある程度以上のトレーニングを積んでいる彼から逃げ切れるわけもなく
思いのほかあっさりと腕をつかまれてしまう
「………………」
「なんで、逃げる…………」
「……………………っう」
「………。なんで、泣く……………」
「……………だ、って………っふ」
全速力で走って息が切れたところに、しゃくりあげたら呼吸がおかしくなった
なのに胸のうちは妙に冷静で、にじむ視界に飛び込んできた彼の顔の輪郭が
少し締まったかもしれない、などど思ったりした
久しぶりに会ったというのに、逃げて更に泣くというのも、ある意味失礼極まりない話だ
とはいえ彼はそれをさして気にするふうでもなく蘭世の顔をじっと見て
小さくため息をついた
「…………………泣きたかったのはこっちの方だ」
「え」
その腕はふわりと簡単に蘭世を包み込む
唇を首筋に当てしばらく髪の香りを嗅いだのち、『え』の形で止まったままの唇を塞いだ
身体の欲求は薄いほうだと思っていたのだけれど
彼に会いたいと思う気持ちのうち、何パーセントかは彼を求める気持ちも含まれていたのかもしれない
広い胸にしがみつき、絡まってくる彼の舌に懸命に応えた
朝の光が眩しいくらいに差すこの時間帯でよかった そう思ったのはどちらであっただろうか
余韻を残しつつ彼は、胸にうずめた蘭世の頭を撫でた
涙も止まり、穏やかな気持ちで蘭世は彼の鼓動を静かに聞いている
「…………あ、悪い……汗くさいか?」
「ううん、全然………」
「そっか」
「うん」
ちょっとだけ、嘘
鼻をかすめるその匂いですらもいとおしく思えた
「あのな」
「ん………?」
「…………たまには、その……。来い、よな」
「………………」
思わぬ直球に、返す言葉が出なかった
見上げた蘭世の顔から目を逸らし、俊はぽりぽりと鼻の頭をかく
なにかを思い起こすようなその表情からは、深いところまで読み取れはしなかったけれど
自分の心を読んだうえでの発言ではないことくらいは判った
「真壁くん………」
「調子………狂うんだよ。色々とっ」
「いろいろ……………?」
──────それはこれまでの自分と同じ、不安定な気持ちを抱えていてくれたということ?
「…………色々と、だよっ。あんまこっち見んな」
なぜか一拍の間ののち彼はほのかに赤面して、問いかけようとした蘭世の目をてのひらで隠した