「おかえりなさい♪」
「───ただいま」
両脇に抱えていた荷物を受け取って、靴を脱ぐ俊のちょっと丸まった背中を眺めながら
蘭世はくすくすと小さく笑った
「………なんだよ」
「え? あ、ううん、なんでもないっ」
「………???」
「えへへへへ──────」
靴箱の上に佇む置時計が指すのは、19時半をほんの少し──靴を脱ぐ時間分──回ったところ
『行き先を言ってからにしてね』
半ば冗談交じりに言った、あのときの言葉を覚えているのか
本当にいなくなってしまったことをいまだに気にしているのか
俊は、前日の夜、遅くともその日の朝一にはいつも
その日の予定を蘭世に伝えていた
どこへどうやって行って何時に家に戻る
それはほんの些細な用事でも───例えば、そのときどうしても手が離せなくて
お願いしてしまったお遣いのようなものですらも
スーパーなり何なり、その行き先と、戻る時間を告げてから出かけていって
玄関の置時計がその時刻を指したとききっかりに、真壁家にはチャイムが鳴り響く
ちょっとでも遅れれば、ドアを開けたその瞬間『悪い』と呟いて
突然のおつきあいでのお食事や飲み会などが入った日には
電話での声の沈みっぷりに、却ってこちらの方が申し訳なくなってくるくらいだ
そんな細かいところまで気にしなくてもいいのに、と思うけれど
いつも心の片隅に、なんとなくの不安を抱えていたあのころとはちがう
『いってらっしゃい』そう言って待っていれば、ちゃんと
『ただいま』と、必ず帰ってきてくれる
そう思えることが何よりも嬉しい
「───おかえり、なさい……」
「え?」
居間へと向かって歩いていくその背中に、小さくささやく
音としてみれば、蘭世以外の誰の耳にも届かないであろうほどの
ごく僅かな響きでさえもすくい取り、俊はくるりと振り返る
顔の右上あたりには、大きなクエスチョンマークがひとつ
「───ただいま。……なんだ? 何度も」
「ううん。……えへへへへ──────」
「…………変な奴……」
苦笑交じりに微笑んで、俊は蘭世の前髪をくしゃりと撫でる
ことことくつくつと煮込まれたお鍋も、あたたかな香りを漂わせながら
静かにふたりを待っている