テーブルの中央に布巾がかかったおかずが置いてあるのは
“今日は夜勤”のしるしだった
カレンダーの赤い丸と見比べてみて、ただいまと言いかけた口を俊は慌ててふさぐ

「……………」

部屋に荷物を下ろして、ジムで馴らし適度に疲労した体の汗を先に流すべきだろうかと一瞬考え
すぐさま台所へと向かう
それより何より、今日は恐ろしく腹が減っていた

布巾をめくり中をあらためて、再び布巾を戻し
コンロに乗った小鍋のふたを取り覗き込んで、火を点ける
中身が少しずつ煮立ってくるのを、ぼうっと眺めながら待つその間に
きゅるりとひとつ、腹の虫が鳴いた

仕事柄、勤務時間帯の不規則な母とふたり暮らしの自分がまず初めに覚えたのは
家の鍵を、内からも外からもきちんと閉めること
そしてもうひとつは、火の扱い
母の作っておいてくれたおかずを温めるのも、もう、手馴れたものだ
とはいえ、温めなおさなくとも充分においしいと思えそうなものは
面倒くささも手伝い、大概そのままでいただいてしまうのだが

そのうちでも唯一、これだけは温めなおさないと気がすまないというのが、味噌汁だ
最近では小技もきかせて、決して沸騰させないよう絶妙な加減で温めたそれを
御椀へゆっくりと注ぐ
食欲を刺激する出汁の香りがふうわりと漂う

多めによそったご飯と味噌汁を手に席につく
いただきます と口には出さないまでも、両手を合わせて心持ち頭を下げ
まずは熱い味噌汁をひと口すすり、ほっとひと息つく
今日の具材は、じゃがいもとわかめとたまねぎ
それぞれのやさしい甘みが溶け込んだこの組み合わせの味噌汁は、俊の大好物だった

「…………こんなにうまいのに」





そういえば昼間にも、これと全く同じ台詞を呟いた瞬間があった

給食時間中、何とはなしに隣の席に座るクラスメートの食器が目に入ったときのことだ
そういえば以前にも彼女は、何かの話のついでにたまねぎが嫌いだと言っていたような気がする
だとしても。隣の彼女はカレーの中のたまねぎまでより分けて残そうとしていて
その徹底ぶりに半ば感心しつつ半ばあきれつつ
こんなにうまいのに。そう言った瞬間の彼女の顔といったら───





「……!! …………っぶ、げほ、げほっっ!! 〜〜〜〜〜〜っ………」

世界中の不幸を一身に背負ったかのような、悲哀に満ちた表情を思い出した瞬間、笑いがこみ上げ
ついでに、飲み込みかけた味噌汁までもが逆流してきて、俊は思いっきり噎せた

ひとしきり咳き込み、ようやく呼吸も落ち着いたあと目元と口元とをむなしく拭う
その辺に噴射したりしなかったのが不幸中の幸いだ

「…………なにやってんだ、おれ……」

ふうっと深いため息をつきつつ俊は、のっけから中断してしまった食事を再開しようとして
伸ばした箸をぴたりと止める 
──────ひとりで食べる夕飯中に思い出し笑いをするなんて、今までに何度あっただろう





親ひとり子ひとり。その道は決して平坦なものではなかった
悪意を含んだ好奇心のみで、陰に日向にとやかく言う輩が尽きることはなかったし
実際、その攻撃は俊にも及んでいた
昔はまともにそれを受け止め、よく泣いた
そんなとき、心の拠りどころとなり得るような、父とのやさしい思い出は
何ひとつないという事実も辛かった
おそらく母もそうであっただろう

けれど自分の前ではその痛みをおくびにもださず、いつも優しく微笑む母に
少しでも早く楽になって欲しくて。自分が“子供”でしかないのがたまらなく悔しくて
背伸びし、身を守ることを考えた──────それは案外、簡単なことだった
いつも虚勢を張り、睨みをきかせておけば、大抵の輩は自分を避けて通ってくれたから
負け犬の遠吠えよろしく、向こうから何か言われても
こちらに届く声は、滑稽なまでに貧弱だった
それでいいと思っていた

けれどひとりだけ。それまでとは全くの例外が現れた
俊のインナースペースに、真正面から、こんなにも簡単に入り込み
知らず知らずのうち、必要以上に着込んでしまっていた薄皮を、一枚一枚丁寧に剥いでいく

日毎、少しずつ裸の心に近くなっていく、彼女の前での自分の姿には
俊はまだ、気づかない