そのひとからのお誘いがあったのは、ちょうど一週間前のこと
『たまには女の子同士で息抜きしなくっちゃ!』そう元気よく言った直後
『ああでもわたしは、女の子って歳じゃないけど……』と、ぼそぼそと口ごもりながら電話の向こうで笑った

それまでにも何度か足を運んだことのあるその家は、主が持つ世界チャンプという肩書きに反して
小ぶりな構えをした白い一戸建て
芝の生えそろった庭の一角には、管理を一手に任されているのであろうそのひとの雰囲気を
そのまま映し出すかのように季節の花が咲き誇り、そちらに目をやった者の心をふと和ませてくれた
いまそこでなるみを出迎えたのは、色とりどりのプリムラ




「いや───ん、おいしそう! これ、おねえさんが作ったんですかっっ」
「ええ。こうしてなるみちゃんとお茶するのなんて久しぶりだから
ちょっと頑張っちゃった。ブルーベリー、苦手じゃなかったわよね?」
「大好きです〜〜〜!」
「よかった……」

と、紅茶を差出しながら蘭世は微笑んだ
色気より食い気とはよく言ったもので。庭先で和まされた筈のなるみのテンションは一気に上がる
そして何より、目の前のひとと同じ時間を過ごすことができるその幸せに

そこにあるだけでなんだか嬉しくなってしまうような微笑みを持ち
こまごまと、痒いところに手も足も伸ばすほどの気遣いを常に忘れず
料理をさせればどれもプロ級、特にケーキはその辺のお店なんて裸足で逃げ出すくらいの腕前を持つそのひとは
今も昔も、自分の憧れだ

「……あ───、おいしい……。パイ生地もさくさく〜〜」
「ありがとう! ああでも、自分で言うのも何だけど……今日のは大成功かも
甘いもの食べてるときって、すごく幸せになるわよね」
「ね!」

気兼ねする必要もないが故、たっぷり切り分けられたブルーベリーのタルトを
これまた遠慮なく、ぱくぱくとほうばる
それだけじゃ飽き足らず、淹れたての紅茶にもスプーン一杯のはちみつを落として
やわらかな香りと甘みを楽しみながら、くいっと飲み下す

遠慮しなくていい。とはいえそういえば、とこの家の他の家人の行方を問う
この家には小さな子供も居る筈なのだ。自分が保母を務める先にやってくるあの娘とか
すると蘭世は肩をすくめた

「愛良はね、うちに預けちゃった。今頃、鈴世が大変な目に遭ってるかも」
「ああ、愛良ちゃんも鈴世くん大好きですしね───……」

朝方電話を入れたところ、珍しく、鈴世はまだ寝ているとの返事が返ってきた
電話口の椎羅の談によれば、どうやら昨夜彼は遅くまで飲みに行っていたとのこと
そこへ、元気爆発特攻隊長・愛良が遊びに行ったのだとしたら、『大変な目』に遭うであろうことは
容易に想像がつく

「卓はね、うちのひとと遊びに行ったというか、行かせたというか……
バッティングセンターへ出かけていったわ。二日酔いの頭にはちょっと刺激的すぎるかもしれないけど」
「え? おにいさんも二日酔いなんですね」
「…………。あ、ああ! 珍しく、ね。飲んで帰って来たから……
そ、それよりなるみちゃんの話! なんか申し訳なかったかしら。こんな日に呼び出したりして」
「?? ……いいえ、全然! もうね、二日前ともなると逆にヒマっていうか
準備とか、やり残したことはないかな───って、不安ではあるんですけど」

いつになく、話の流れを強引に軌道修正したような口調がいささか気にはなったものの
この場に自分を呼んでくれたことは、純粋に嬉しかった。それを主張するほうが大事だった
二日後に向け日々高まっていた緊張感が、ふっと途切れる今日のような日は
その都度完璧にことを進めて来たつもりでも、ひとつひとつを洗い出したくなってしまう
そして、その日が近づくにつれふつふつと湧き上がってきた思いに、足元をすくわれそうになるから

「ああ、確かに……今日くらいの日がいちばん、やることがないかもね───
で、明日になるといきなり緊張し始めて……夜は、全っ然眠れなくなっちゃう」
「脅かさないでくださいよう。そうでなくても、最近ちょっと眠れなくて……」
「え」
「あ……」

気を緩めすぎというかなんというか。うっかり口が滑った
瞬時にして顔色を曇らせた蘭世は、おそるおそるといった感じに問いただす

「なにか……あった? まさかと思うけど、心臓が」
「ああ! ち、違います。心臓はもうこのとおり元気でっっ。あの……」
「じゃあ鈴世が、なにか? もしそうなら言ってね! 叱っておくからっ」
「そ、それも違います〜! 鈴世くんはいつも、すっごくやさしいですっ」
「……あら、さりげなく惚気られちゃった……。なら、いいんだけど……」
「エヘヘ……」

曖昧に笑うとなるみは、手にしたままのカップに視線を落とした
やさしく香るその琥珀色は、意外に甘いもの好き・そして紅茶通だったりする彼のことを思い出させる

彼はとてもやさしい。やさしすぎるくらいに
大切なものを失ったそのあとも、なんでもないことのように笑っていた
けれどそれを失ったのは、自分の“ために”ではなく、自分の“せいで”
彼は何も言わないし、勿論、責めたりもしない。それは彼ばかりでなく、彼の周りにいるどの者も同様に
だからこそ却って、自責の念は積もり積もって

やっぱり気を緩めすぎなのだ今の自分は。ぱたぱたと落ちる涙を、止めることができない

「…………ごめんなさい……っっ」
「え……。な、なにが? って……な、なるみちゃん!? 泣いてる!?」
「お、おねえさんにこんなこと言っちゃうなんて、それ自体、偽善なのかもしれないけど
でもあたし、誰にも言えなくて……!」
「なるみちゃんっっ。ちょっとあの、落ち着いて! ああもう、ハンカチはどこだったかしら……」
「鈴世くんを人間にしちゃって……ごめんなさい……!」
「!!」

叫ぶようにそう言うと、なるみはテーブルに突っ伏して泣き崩れた
すでにそうなってしまったこと。謝ってどうなる問題でもない。けれどそれは、抱え続けるにはあまりにも重い問題だった
そのおかげでいまの自分は、彼のとなりに立っている。大切なひとを愛する喜びを、日毎夜毎かみしめている
その代償が、大切なひとの大切なもの。取り返しがつかない喪失感が、つねに隣り合わせにそこにある
彼らしい、ストレートな言葉でのプロポーズも、とても嬉しかった。待ちに待ったその日は二日後に迫って
それでも、この期に及んでどうしても、考えが至ってしまうのだ。───“彼と自分が出会わなければ”

「…………なるみちゃん、とにかく落ち着いて……これ使って? ねっ」
「……、う…………っ」
「………………」

ようやく見つけたハンカチをなるみに手渡しながら、蘭世は蘭世で、思いがけずの部分に触れてしまったことに驚いていた


弟の話を聞いてやって欲しい そう夫に頼んだのは、実際、鈴世がなにやら思い悩んでいる様子が見て取れたから
けれど今日、なるみをこの家に呼んだのは、まったくの偶然。久しぶりに気合を入れケーキを焼いたり
その味に酔い足をばたばたさせながら、繋がっているんだかいないんだか、女同士でしかそのノリが理解できない話をしたり
そんな他愛もない時間を、じきに妹となる彼女とふたりで過ごせたらいいなと思った。それだけだった。のに

『男同士の話だ』酒の席での弟の様子を問うた自分に、一瞬詰まりながらもそう言って笑った夫は
あのとき、何を思ったのだろう
何も言わない、言わなくていい。それだけ言って自分を抱きしめた彼は、それ以降も何も言わず
想いが通じたそのことに有頂天になっていた自分には、当時の彼の心情を慮る余裕などなかったし
その後、再びふたりそろって魔界人となった今となっては、なおのこと。未だ自分のことを語るのを苦手とする彼に
過去を問いかけることなどできよう筈もない

じゃあ、当時の自分はどうだったであろうか
そう思いを馳せたとき、あのしっかり者の弟はやっぱり自分の弟なんだなあと、改めて思い至った


「……ごめんなさい、これ……」
「ん? ああ、いいのよ。どんどん使っちゃって」
「どんどん……。もう、大丈夫……です。洗って、お返ししますね」
「やだ、そんなのいいわよ!」

ぐちゃぐちゃになった顔をあげたなるみの手から、同じくぐちゃぐちゃになったハンカチを受け取り
かわりにティッシュを箱ごと差出しながら、蘭世は切り出した

「実はわたしもね、人間になったことがあるのよ。姉弟そろって……ねえ」
「…………はい……」

さほど驚いた風でもなくなるみは答えた。ティッシュを一枚取り、鼻先を押さえながら
それには蘭世のほうが、逆に驚いてしまう

「あ、あれ? わたし、このことをなるみちゃんに話したこと……あったかしら」
「『四界伝説』で……。鈴世くんにもらったんです」
「そっか……。あれは本として世間に出したものだから、ちょっぴりフェイクも入ってるけど
あんな感じのことがあったのよ」
「………………」

発売日前に鈴世がくれた『四界伝説』。家に帰るなり一気に読みふけってしまった
いつもにこにこ幸せそうに笑っているおねえさんと、口数少なく、なまじ顔のつくりが整っている分
黙っていると怖いくらい。けれどふとした瞬間――蘭世を見やりながら――にその表情がほどけるおにいさん
生まれたときから恋人同士だったのではないかと思われるほどのこのふたりには、数々の紆余曲折があり、今がある
何度も何度も読み返して、そのたびに涙が止まらなくなる

「で、あのときのわたしは、どうしてもあのひとと同じ位置に並びたかったの
そのために、それ以外の部分がどうなるかなんてどうでもよくて……というか、考えられなくなっちゃって」
「………………」
「おとうさんの涙を見たのは、あれが初めてのことだったなあ」
「!!」

完治したはずの心臓に、ずきりと突き刺すような痛みが走る
このふたりの場合、結果的に再び魔界人に戻ることができたから、まだいい。けれど、自分たちの場合は───

一旦俯いてしまったから、怖くて顔が上げられなくなる
最悪だ。どんなに謝っても済まないことを謝ってしまうだなんて、偽善以上の問題
先刻の自分は、『そんなことはないわ』という答えを返してもらえるとでも思っていたのだろうか

「でも、鈴世となるみちゃん、あなたたちの場合は……違うでしょう?」
「───え」

ぴたりと震えがおさまる。穏やかなその口調はそれまでのものとなんら変わることはなく
恐る恐る顔を上げたなるみを見つめる視線もやはり、穏やかで優しいいつもの蘭世のもの

「え、って……。あのときなるみちゃんが死んでしまっていたら、鈴世は間違いなく後を追ったと思うし」
「そ、それはそうかもしれないです、けど……! だからそれ以前に、鈴世くんとあたしが出会ってなければ」
「それはなるみちゃんがどうこうできる問題じゃないでしょう。もちろん鈴世も、だけど」

それまでずっとなるみの心にのしかかっていた重みを、あっさりと跳ね除けて蘭世は笑う
その笑顔はすぐさま苦笑へと変わり、心持ち目を泳がせながら蘭世は続けた

「姉のわたしが言うのも気が引けるけれど……あの子は社交的な子だから、けっこうモテたと思うのよね」
「……は? はい……そりゃ、もう……」
「でもそんな中ずっと、なるみちゃんだけを思ってきたの。その理由は……わたしにも、なるみちゃんを見てれば判っちゃう」
「…………そんな……」
「なるみちゃんが生きていてくれて、よかったな───……とも」
「………………」

そう言って蘭世は言葉を止め、くいっと紅茶を飲み干す
紅茶は思った以上に冷めていて、その分甘みが割増しに感じられた。思わず蘭世はカップを覗き込む

「ねえ、なるみちゃん。こう考えてはもらえないかしら……確かに鈴世はなるみちゃんのために人間になったけれど
逆に、鈴世のことを生かしてくれたのは、なるみちゃんなのよ」
「でも…………!」
「“でも”は禁止。過去じゃなくて、今と、そして未来のことを考えて欲しいな」
「………………」
「多分、永遠の命って……すごいことなんだろうなと思う。……って、他人事みたいだけど
でもその価値を決めるのは、本人以外の何者でもないのよ。で、鈴世の判断は、間違いじゃなかったと思うわ」
「おねえさ…………」

一度、人間になった───それを捨てた───ひとの口で言われてしまうと、その言葉はひどく説得力がある
そして、自分の憧れの象徴でもあるそのひとに、逆に自分のことをそこまで買ってくれていることを示されてしまうと
押し止めた筈の涙が、再びじわりと溢れ出す。先刻とは全く異なる意味合いの涙となって

「あらら……泣くようなこと言っちゃったかなあ……」
「ち、違うんです……これは、うれしくて…………」
「そっかあ……じゃあ、はい。ティッシュ」
「ん…………」

落ち着いたら、鼻水まで出てきてしまった。渡されたのがティッシュでよかったと思う
というよりも多分それを見越して渡したのだろう。目元と、鼻を、すすりながらちょちょいと押さえたなるみを
静かに眺めながら蘭世は、何かに気づいたような表情をしたのち、ふと肩をすくめた

「……いちばん得しちゃったのって、実はわたしなのかも」
「え?」
「“得”っていうと語弊があるけど……。あのね、鈴世のおかげでわたしは、こーんないい子と
姉妹になれちゃうんだなって思ったの。わたしは何もしてないのにね」
「………………!!」

折角おさまったと思ったのに。三たび溢れ出した涙を、慌ててなるみは押さえた
そうだ自分は鈴世のおかげで、鈴世だけではなく命だけでもなく、こんな素敵な家族までをも手に入れることができるのだ
なんて幸せ。それこそ夢のような。───どんなに感謝しても、し足りないくらいだ

あたしもです。あたしもおねえさんと姉妹になれて、うれしいです
そう伝えたいのに、喉が詰まってうまく言葉にならない。がくがく頷くのが精一杯
そんななるみの目の前にあるカップと、自分の分のカップを手に、蘭世は席を立つ

「……あのね、もし嫌なことがあったりしたら、さくっと離婚しちゃってもいいからね
それ以降もわたしとこうして、お茶したりしてくれれば。それだけは約束」
「は、はい! ……って……えええええっ!?」

花のような微笑みを浮かべながら、あっさりとひどいことを言う
もちろんそれは彼女の本音ではないと思う。思いたいけれど。その表情からは読み取れない
不意打ちだとはいえ、咄嗟に大きく頷いてしまった自分が、いちばんどうかと思うのだが

「……お茶、淹れ直してくるわね」

そう言い残しキッチンへ向かった背中を目で追いながら、なるみはもう一枚ティッシュを拝借した





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