その日は朝から細い雨が降っていた
それまでの陽気はどこへやら、外はすっかり花冷えの様相を呈し
蘭世は、先月頭にしまったばかりなのに再びお目見えしたというヒーターの温度を、更に強めた

ここは蘭世の部屋。そして今日は、俊の誕生日
とはいえ、一般的には単なる平日でしかないこの日、どうしてもバイトを休めなかった(それでも時間調整だけは成功した)自分を
短い時間だけでももてなしたいという江藤家面々の厚意により、学校帰り、この家に立ち寄ったという次第だった

「……サンキュ」
「ううん。けどホント、寒さが戻っちゃったね」

そのまま蘭世は、窓から外の雨景色を眺めていた俊のとなりに腰をおろす
ふとそちらを見やったのは、そういう意味ではなかったのだけれど
その視線から勝手に何かを感じ取ったらしく、腰を浮かせながら蘭世は妙に焦った声音でまくしたてた

「あ……あのね、お手伝いをさぼってるとかじゃ、ないのよ?
ケーキはわたしが焼いたのね。そしたら、ごはんはまかせて、なんて
おかあさんが張り切っちゃってて……」
「……いや、おれは別に……。とりあえず、座れば」
「あ……ハイ」

と俊は、自分の部屋でもないのにクッションを勧めた。それに従いながら蘭世はぺろっと舌を出す

どちらかと言えばそれは、自分への気遣いなのだろうと俊は思った
この家に帰りついたとき、そして蘭世がぱたぱたとケーキの仕上げをしているとき、にこにこと喋りながら
俊ひとりの時間をつぶしてくれた鈴世も、蘭世の仕事が済むやいなや自分の部屋へと戻ってしまった
なんだか申し訳ないと思いながらも、その気遣いはやはり素直にありがたい
いつもよりも少しだけ、身を寄せてみたくなったりするのは、一気に冬へと逆戻りした気温のせいだけではないから

「雨……やまないね」
「ああ」
「桜、散っちゃうかしら」
「…………」

外は相変わらず、雨が降り続ける
この時間にしてはやけに薄暗い空の下、時おり風向きが変わり、細かな粒が窓ガラスを打った
心地よい静けさに包まれた部屋で、自分の息遣いが響いてしまいはしないかと俊は、注意深く息を吸って、吐く
同じく窓の外を向いていた目は、いつのまにか俊に向けられていて
目が合うと、蘭世は少し照れたように笑った

「真壁くん……雨、好き?」
「……好きでも嫌いでもねえけど……。なんで」
「じっと見てたから……」
「………………」

晴れているほうが、身軽だし、なにかと気を遣わなくて済むから、それに越したことはないけれど
たまには雨もいいものだと思う

幼い日の自分にとって、雨はいつも冷たいだけのもので
傘を携え迎えにきた母に手を引かれて帰る級友たちを横目で見ながら
母には言えない、かつ答えの見いだせない問いを胸のうちで繰り返していた
結果、自分は。朝の空模様にひどく敏感になった

けれど今は、あたたかな雨もあることを知っている
肌で感じる冷たさは、今も昔も変わらないけれど
例えば今日のように、それぞれちゃんと傘を持っているにもかかわらず、肩を寄せ合いひとつの傘で歩くとか
雨の日には雨の日なりの楽しみかたがあるのだ

「わたしね、雨って結構すきなの」
「……へえ」

意外な言葉だと思った
雨といえば五割方の確率で、彼女の最も苦手とするアレがついてくるというのに

「あ、もちろん雷はダメなんだけど……。雨って、真壁くんみたいだなって」

それは、訝しげな顔で見たのであろう自分への、回答のつもりだったのだろうと思う
けれど、ますます意味が判らなくなってしまった

「…………。湿っぽいってことか?」
「え!? ちがうよう……あのね」
「んじゃ、冷てえってこと……」
「もうっっ。わかりました、もういいですっ。恥ずかしいこと言おうとしてた、わたしがバカでしたっっ」
「恥ずかしいこと?」

あまりに卑屈すぎる想定のみ並べたという自覚はあるが、逆に問いたい
ロマンチシズムのかたまりのような彼女が、自ら称するほどの『恥ずかしいこと』など
汲み取れる(且つ、口にできる)輩は、果たしてこの世に存在するのだろうか

「……って、なんだよ、教えろよ」
「もう、い・い・ん・で・す、ってばっ」
「おまえはよくても、おれは気持ち悪いんだよ。言いかけてやめるなんて……ほれっ」
「うひゃあっっ! く……くすぐったい、ようっっ」

ぷうと頬をふくらませ、あさっての方向を向いてしまった隙をついて
腰から脇にかけてをくすぐり上げる
身をよじらせ逃げ出そうとするのを背後から捕え、ぐいと引き寄せると
観念したように蘭世は抵抗するのをやめ、“抱っこ”をされる格好で俊の胸に身を預けた

「し……、しゃきっと、するの。真壁くんといると」
「は?」
「雨上がりの花って、……散っちゃったりもするけど……元気になるでしょう?
わたしも、そうだから。真壁くんはわたしに、元気をくれる、から……」
「………………」

元気とか勇気とか、その類のものをもらっているのは、むしろこちらのほう
逆に自分も、そんなすごいことをできているのだとすれば、こんなに嬉しいことはない
けれど自分が返すことができるのはいつも、こんな憎まれ口ばかりだった

「それはつまり……自分は花なんだと、暗に……」
「!! もう〜〜〜〜〜〜!!」
「あいてっ」

まさに、仏の顔も何とやら。その言葉に蘭世はすぐさま身を翻し、顔を真っ赤にしながら俊の胸をタコ殴りする
ぽくぽくと胸を打つ手の一方を取り、てのひらを頬にあてると、はっと息を呑んだ蘭世の攻撃は止まった
宙に浮いた状態のままのもう一方の手は、ごく自然に膝へと下りていく

目を閉じ、摺り寄せた頬に伝わる感触だけをしばらく楽しむ
再び目を開いたとき、蘭世の表情はすっかりいつもの微笑みに戻っており
その香りに吸い寄せられるように俊は、桜色の唇に唇を重ねた
いったん離れ額と額をくっつけて、改めて唇を噛み合わせる
互いの舌を、その在り処を確認し合うかのように絡め、背中をさすっていたてのひらにぴくりと緊張が走るのを感じたその瞬間
階下から、できたての夕飯とともにふたりの名を呼ぶ声が響いた

「………………」

うっかり忘れかけていたが、ここは蘭世の部屋だった
名残惜しく唇を離し、けれどもう少しだけ、とばかりにその背を抱いたまま肩に額を乗せる
仮にも自分を祝ってくれるというのに、この言い草は何だけれど
それでもこんな言葉が口をついて出てしまうのは、自分の不義理のせいばかりではない。……多分

「……今日は」
「え?」
「おれの部屋にすればよかった」
「……な……んで……?」
「なんでって……」

みなまで言わせるか。ぐっと言葉に詰まりながら顔を上げた俊の表情に、蘭世は一瞬ぎょっとして
鼻の頭をかきながらバツが悪そうに笑った

「…………。わたしも、そう思う……」

外は相変わらず、静かに雨が降り続ける
その雨の音にさえかき消されそうなほどのか細い囁きを、しっかり聞き取ったあとで俊は
もう一度軽く唇を重ねた