玄関のドアを閉じ、とるものもとりあえず真っ先に
ほんの僅か濡れてしまった毛先とスカートの裾を拭うためのタオルを愛良に寄越したあと彬水は
再びドアを開け、傘の雨雫をばさばさと落とした
映画館を出たその瞬間から降りだした、雨
なんとも間の悪い話だ
さらに腹立たしいことに、あれだけ傘(と、彬水の肩)を打ちつけた雨の勢いはどこへやら
こうしてふたりが彬水の部屋に着くころには、しとしとと穏やかな雨足へと変わっていた
「しばらくおとなしく待ってみりゃよかったな……悪い」
「ううん、あたしは全然大丈夫っ。それより、新庄さん……」
「ん? ああ」
水滴を落とした傘をバスルームに干しに行った彬水の右肩───愛良が並んで立つのはいつも左側───は
傘に負けず劣らずの勢いでずぶ濡れだった
居間へとやってきた彬水は、ジーンズに、タオルを肩に羽織っただけのいでたちで
そのグレーをぱたぱたと仰ぎながら箪笥から替えのシャツを取り出し、愛良のとなりに腰を降ろす
ごく自然なその動きに、密かに愛良は息を飲み込んだ
たとえば、隆々と割れているというわけではなく、ほどよく浮き出た腹筋の線が美しいな、とか
軽く曲げた肘の骨が、明らかに自分とは違う質感だな、とか
なにかと、いつもとは異なる視点で見てしまうこちらの心境など、おかまいなしといったところか
イマドキのジョシコーセーもイロイロとフクザツなんだぞ、と
口に出してみたらどんな顔をするだろう
下手に気を遣われても、困る。この気楽さがうれしい
だからといって、何も感じていないと思われるのは、ちょっとさみしい
文字通りフクザツに絡み合う気持ちを持て余しながら愛良は、彬水の肩にもたれかかる
頬に触れた上腕は、打ちつけた雨の余韻か、いつもよりもほのかに冷たく感じられた
「新庄さんはいつも、傘を持ってるんだよね……」
「うん?」
謀らずもその所作は、手にしたシャツを着るのを妨げることになったのだが
これまた特に気にすることもなく彬水は、そのシャツを床に置き、愛良の声に耳を傾けた
「……漫画とかだと、こういうにわか雨のとき、ふたりとも傘持ってなくて」
「は? ……はあ」
我ながら唐突な話題のふりかただと思う。一瞬目を見開いた彬水が、拍子抜けしたように息を抜いたのが判った
「でね、びしょびしょになりながら走って、男の子の部屋に飛び込んで
とりあえず、ぬれた服着替えろよって女の子にシャツを貸して」
「ああ」
「襟元からちらっと見える鎖骨に、ムラッとしちゃってさあ大変……てのが定番じゃない?」
「…………?? 濡れたかったのか?」
「! そうじゃないけどっっ」
「じゃあ、別に問題はないだろう」
「だからそういうことじゃ、なくって……」
傘も青、手渡されたタオルも青。同じ青でも、後者のやさしい色合いは、彬水の好みとはほんの少し異なる
おれが守ってやる いつかの言葉どおり、やわらかな繊維で包みこむように、それこそ一筋の雨からも
日々自分は守られているのだということを、こういうとき、とみに思い知らされる
思い知らされるというのは、それを感じさせないほど日々の彬水の動作が自然なものだからだ
きっとこんなふうに、都度恋人と呼ぶべき相手を守ってきたのだろう
彬水からはっきりと“前歴”を聞いたわけではない。だから、こんなことを気にするの自体
おかしな話なのかもしれない
けれどイロイロとフクザツな身としては、身につまされることがあるのだ
恋人をごく自然に守るのは当然確定だとして、果たしてその先はどうなのかと
あるいはちょっと気を抜いて、ふたり揃ってずぶ濡れで帰ったのち、『定番』の流れを楽しんだりするのだろうかと
もちろん、そんな流ればかりを期待しているわけではないのだが
シャツから鎖骨を覗かせるどころか、ぱふぱふのタオルにくるまった(その実、本体は露ほども濡れてはいない)自分が
幸せなのか惨めなのか、いまいちわからなくなるのだ
果たして自分は、隣に並ぶ恋人なのか、あるいは、後ろをついていくだけの雛鳥なのか
「……まあ、定番……といえば、そうかもしれんけど……」
そう言って彬水は、おかしくてたまらないといったように吹き出した
「……なあに?」
「いや……」
いや、と言いつつ、さらにくつくつ笑う。意外に笑い上戸な彬水は、いったん笑い出すと長いのだ
「まあ、なんだ、あくまで主観なんだが……」
「??」
「そういうときに、ただでさえいろんなものが見えそうな白シャツなんか貸す時点で
ヤロー側としてはかなり意図的なんじゃないかと……思う」
「……そうなの?」
「ああ」
「え───……」
望んでいた回答からはいささかよれた気がするが、ある意味、ロマンをぶち壊された
軽い脱力感のもと呻く愛良の顔を眺めながら、彬水は改めて盛大に吹き出し、愛良の鼻先をぴんとはじく
「……マセガキめ」
「ひゃっっ」
「ほら、ちゃんと拭いとけよ」
と、彬水は愛良のタオルを肩から奪い、心持ち湿っている程度の髪をひと房、包み込んだ
そのまま、摺り合わせるのではなく、やさしく押し包む
気を遣っていないようでいて、そんな丁寧な扱いをされてしまうあたり、今の愛良にとっては
ますますフクザツ化していく一方であり
「ふ、拭きました! ていうか、もともとそんなに濡れてないし!! ……って、そうじゃなくって
またそうやって子供扱いするんだっっ。高校生は子供じゃありません!!」
「…………。ああ、ガキじゃねえな」
「え…………」
発した声の大きさに、我ながら驚く。───驚いたのは実際、愛良のみのようで
彬水は、髪を拭うタオルをそっと床に置いた。次いで、自らの肩にかけていたタオルも同様に
そしてそのまま、こつんと、もたれかかるように額と額をつけ合わせた
「ガキじゃねえから、ぐらっと来るのに余計なオプションは要らんのだが
……他に訊いておきたいことは?」
「………………」
ついさっきまで、ぐるぐると頭の中を渦巻いていたはずなのに、たったひとことで、全てが氷解してしまう
それが悔しくて、やっぱり嬉しくて。ただぶるぶるとかぶりを振るしかできなくなってしまった
それがすなわち返事であり、ほっとひと息ついてから彬水は、愛良の唇に唇をそっと重ねた
指先はするりと衣を解き、そのまま細身のラインを辿る
抱え運ばれたベッドの軋む音と、静かに降り続ける雨音。そして
擦れる肌の温度と荒い吐息とが混じり合うのに、さほど時は要しなかった