「相手を好きなのに、拒絶してしまうのって……どういう心境なのかしら」
「は?」
下校途上、隣を歩いていたゆりえの呟きに、克は思わず足を止めた
どういう心境もなにも。それはまさにほんの少し前までの自分の言動だ
なにより一番大切な筈の、お互いの気持ち。それを確かめ合うこともなく、身分が違うとか住む世界が違うとか
(今となっては)どうでもいいことに囚われ、いじけて、あろうことか相手に当たり散らして───
思い起こせばそこに穴がなくても掘って埋まりたいほどの悪行に、なんだかいたたまれない気持ちになる
気持ちだけではなくうっかり表情ににじみ出てしまっていたらしい。はっとしたゆりえは慌てて付け足した
「あっ、違うのよ。わたしたちのことじゃないの。蘭世さんが……」
「江藤?」
「と、真壁くん……の、ことなのだけれど」
連ねたのは、聖ポーリア学園ボクシング部の部長およびその専属マネージャーの名前
この二人は、そろいもそろって今日の放課後、部室に姿を見せていない
あの、いろんな意味で印象的な試合で勝利を収め、晴れて正式な部活動として認められた矢先、かつ
克個人としてはボクシングへの興味がぐんぐん湧いて、プロを目指すとまでは言わずとも本腰入れて励もうと思った矢先だというのに
本日の練習風景たるや、お寒いものだった
先の二名が不在、それを知った一名もすぐさま彼の方を追って消え、何の気なしに彼の行方を尋ねた留学生二名は……
そろいもそろって蛙を睨みつける蛇のような顔でこちらを見た
蛙のように萎縮しながらも克は、その場を退散するうまい理由づけができず、黙々と淡々と個人的な基礎練に勤しみ
(蛇、じゃなかったアロンとスパーリングする勇気はなかった)生徒会の仕事を終えたゆりえが部室の前を通りがかったタイミングで、
文字通り逃げ帰ってきたというわけである
彼女が登校早々倒れそれを理由に早退したことは、去り際の曜子から伝え聞いた
とはいえ、ゆりえが昼近くまでそれに付き添い、なにやら深い話をしていたというのは、初耳だった
そしてその内容は、克の想像の斜め上を突き抜けた
「蘭世さん……真壁くんに別れを告げられたと言っていたの」
「マジで!?」
「ええ、本人が言うには。……ただ、なにかの間違いだとしか思えないけれど」
「……ありえねえだろ……」
『逆はあっても』そう言いかけて、先日の彼女の、なにやら不安げな表情を思い出し、克は口をつぐんだ
何の不安もなさそうで羨ましい───そんな克の言葉に対して、彼女にしてはめずらしく言葉を濁したのだ
自分が探られると腹が痛む身だったので、深く追及せずにその場を終えてしまったのだが
それでもなお、別れを告げられてしまうとしたら、何を考えているか分からない色男の方だろうと思われるのに
大体、例の試合直後に公衆の面前でお熱いラブシーンを演じていたのはどこのどいつとどいつだ。全くもって意味が分からない
「わたしもそう思うの。本当に別れると言ったのなら、真壁くんには何か、事情があるんじゃないかって」
「そうだな……。けどアイツ、もともと何考えてるか分かんねえとこあるんだよなあ」
「もし誤解なのだとしたら、なおさら辛いわ。お互い傷つけあうだけだなんて」
「………………」
ああ、腹が痛い胸が痛い。いわば他人の話をしているだけにも拘らず、しゅんと沈み込んでしまった今この瞬間よりも
これまでの自分は、もっとずっと辛い思いをゆりえにさせてしまっていたのだ
今でこそ当たり前のようにとなりを歩くゆりえの手を取りたくなった理由は、謝罪の気持ちともうひとつ
さりげなさを全力で装い伸ばした手は、さりげなさが過ぎたということなのか、───つるっと虚しく空を切る
「………………」
「蘭世さん、憔悴しきっていたけど……大丈夫かしら。わたしに何かできることがあればいいのだけど」
ぐっと両手で鞄の持ち手を掴みながら友を慮り呻くゆりえを眺めつつ、その友のことを恨めしく思ってしまうのは
筋違いだろうか。いやきっとそうなのだろう。行き場を見失った手を意味なく開いて閉じてしながらそう思う、思えば、思いたい
そしてそれより何より疑問なのは
「……おまえら、いつの間にそんなに仲良くなってたワケ?」
「えっ」
少し前から彼女がゆりえに奇妙なくらい肩入れしていたことは知っている
いきなりの部室訪問や、栄養失調で倒れたときの付き添い(それが顔面マクラ事件に発展したのは想定外だが)、
果ては例の試合のセコンドも、種を明かせば彼女の所業ということだし、感謝しているところではあるのだが……
たかだか数日間のうちに、ここまで距離が縮まるとは。ふたりの間に何があったというのか
「も、もしかして……おかしいかしら、ここまで心配してしまうのって」
「へ? い、いや、おかしくはないけど」
「本当に? ……お友達ができたのなんて久しぶりすぎて、距離感が……」
分からなくなってしまっているのよね、と笑いながらゆりえはその頬を朱に染めた
そういえばゆりえが「友達」と思われる相手と行動を共にしているところを見たことがない
眼鏡もきりっと頼もしそうな───あれは副会長だったか───女生徒と一緒にいるのを見かけることは多いが、
あれは友情云々ではなく仕事の延長でしかないように思う
「非の打ちどころなし」対して「非だらけ(本人談)」。ぱっと見、正反対なふたりのように思えるのだが、
それが却って功を奏しているということなのか、はたまた女の友情の奥深さなのか
いずれにしても、いつも冷静なゆりえが今のようにうろたえるのは貴重な姿だ
「……彼女にはね、随分助けてもらった気がするの。実際、練習を見に来るよう誘ってくれたり色々してもらったけど……
それだけじゃなくもっと深い部分でというか……。自分でも不思議なのだけど」
「はあ……」
「わたしも、なにか彼女のためになるようなことをしたいの。たとえ自己満足だとしても」
「………………」
───前言撤回。よく言えば世話焼き、てっとりばやく言えばお節介。彼女ほどではないものの、ゆりえにも若干その気がありそうだ
栄養バランス満点、かつ調理法も簡潔にわかりやすくまとめられた魔法の書……じゃなかった献立リストというかたちで
自分は既にその恩恵にあずかっているではないか(その原動力が「世話」でも「お節介」でもないことくらい把握しているが
なんたるものかを明言するのは勇気がいる)
「……おれもなんか考えてみるよ。真壁のほうをつついてみるとか」
「えっ……あ」
自分も彼女には恩義がある。少なからず彼の方にも
同じ轍は踏まないともう決めた。気持ちと時間の無駄遣いでしかないからだ。そんな実体験を生かしつつ、時には先輩風を吹かせてみるのも悪くないだろう
「ありがとう……」
「別に」
彼女の手をふさいでいた鞄を奪い、自分のそれとあわせて持つ
そのイキオイに任せて断行した本日二度めのチャレンジは無事成功したが、
さりげなさを装い切れた自信はない