雲とピアスとパラダイムシフト
挿話・袖の時雨と雲の船

「おお、来たか~。上がれ上がれ」
「おじゃまします……」

心もち緊張しながらノックしたドアの向こうから、飄々とした感じで彼は顔を出した

「迷わなかったか? いつごろ来るか知ってれば迎えにいったんだが」
「ううん、何度かお邪魔させてもらったし、ひとりで歩いてみたかったから」

外に停められた愛車ならぬ愛雲を指さしながらジョルジュはすまなそうに言った。久しぶりにあの雲に乗ってみたいのはやまやまだったが、そこまで手間を取らせるのは憚られたというのが正直なところだった

悩むのがバカらしくなってきたとはいうものの、鬱屈とした気分は未だ快晴とは言えないままだった。その気分転換の意味合いも多少はあるが、ここにきた主因は、魔界にやってきてからというものの、日がな猛アタックし続けてくるココからの避難だ

娘に激甘な王も、本来であれば娘が所望する相手なのだから是が非でも王家に迎え入れるところだろうが、その娘が恋に恋する状態であるがゆえに放っておいてくれているということなのだろう。しかしその放任状態も今の自分にとっては善し悪しだ。ココは「恋に恋する」どころか、恋の意味すら分かっていないような気がするものの、なついてくれていること自体は単純に可愛い。が、四六時中追いかけ回されるのはさすがに厳しい。恋だろうが勘違いだろうが、いずれにしてもその気持ちに応えることはできないのだからなおのこと

家はもちろん、外をふらふらしていたらすぐ見つかってしまうからと頼ったのがここ、死神ジョルジュの家だった。依頼内容にしばらく爆笑したあと、家の場所は姫君ひとりでは寄りつかないような僻地だし、部屋はいくらでもあるからと快諾をもらい、そしていまの来訪に至る
思えば彼には、初対面のときからお願いごとばかりしている気がする

「ここでなくても、どこで何しててもいいぞ。まあ城とかおまえん家とかほど広くはないけど」
「ううん、おじゃまでなければ是非ここで」
「そうか? まあ気が向いたらどこでも使えよ。たまに変な時間に仕事で出ていくかもしれんけど気にすんな」

多分、今日(以降)のために用意してくれたのだろう、きちんと片づけられ、ひととおりの調度品が整えられた一室を案内された。少ないながら持ってきた荷物を置いて、風呂、トイレなどの場所を示されたのち、客間へ戻る。勧められるまま椅子に腰かけると、家主は慣れた手つきでお茶を淹れてくれた

「あの、ホントごめんなさい。手土産もないのに押しかけて」
「手土産!? な~にをいまさら改まって」

こないだ押しかけたとき、大の大人がふたりそろって手ぶらだったぞ、とジョルジュは苦笑した

「こっちで他に頼れるような人がいないっていうか……ぼく個人のお知り合いって、死神さんだけなんだ。だから、その」
「はは。おまえは姉貴と違ってあっちとこっちをうろちょろしてないからなあ。王子様騒動のときと、あの子絡みのときくらいか」
「うん」
「……あっ」

ジョルジュが、しまったという顔をして口元に手をやったことは分かったが、それに気づかないふりをして、カーテン一枚で仕切られただけのサーバールームを眺めていた
初めてここにきた日、まず、高くそびえるコンピュータ群に驚愕した覚えがある。今はあのときよりもずっとバージョンアップされた機器がずらりと並んでいるが、吐き出されるリストは当時と同じ「魂提供者リスト」なのだろう
あのとき自分は、彼女をなんとか死なせないようにと必死だった。そんな、いまよりもある意味平和な時間(病に伏していた当時の彼女に対してこの言い種は申し訳ないのだが)を懐かしむことができて、ほっとしているくらいなのだ。だから

「そんなに気を遣わないで。ぼくとしては、話題に出さないようにしてくれてることのほうが申し訳ないっていうか、むしろ、どんどん話したいっていうか」
「そ、そうか……?」
「うん。そういえば、なるみもここに来たことがあるって」

久しぶりに口にした、その響きすら愛おしいその名前
いつ戻れるのかあてもないのに、好きだと伝えずにいられなかった彼女はいま、どうしているのか

「ああ~! そういえばそんなこともあったなあ。ついこないだのことなのに忘れてたわ」
「その節はお世話になりました」
「いやおれはなにも……道案内したくらいで。そういえば、雲に乗っけてったらえらい感激してたよ」
「昔から……病気だったからってのもあるかもしれないけど、空を飛びたいって言ってたんだ。ピーターパン的なあれだけど」

はじめて彼女に会ったとき。絵本を抱えた幼い彼女は、自分の変身になんら疑問を感じることなく、必要以上に畏怖することもなく、ありのままをきらきらの目をして受け入れてくれた。それがどんなに難しいことなのか、おなじく幼い当時の自分は、そしてもしかしたらいまの自分も、完全には理解できていなかったのかもしれない
ふたりだけの秘密。公にされてしまったそれを受け入れる者はごくわずかで、それ以外の多勢には「ただ彼女のそばにいたい」そんなささやかな願いさえも簡単にねじ伏せられた

「そうだよなあ、ほぼ死にかけだったのに立派に成長して……勝手に親戚のオジサン気分にさせてもらったわ」
「あはは。より可愛くなったでしょ」
「先見の明がお有りですな」
「そう、可愛いから、さ……」

ただそこにいるだけなのに。「普通」とはほんの少し違うだけなのに。そんな嘆きは些細なことで、あちらの世界にとっては自分たちの存在自体が罪だったのだと思い知らされて
───それでも、彼女に会いたい

「離れてるあいだにさ、ぼくよりなるみにふさわしい奴が出てきちゃったらどうしようって、ずーっともだもだしてるんだ」
「それは……ないだろ」
「なくないよ! 実はモテるんだよなるみは。いつもぼくが鉄壁のガードをしてるから、みんな寄りつかないだけで」
「いやそれはそうなんだろうけど。……ところでな、どんどん喋ったほうが精神衛生上いいと思うけど、別にそんな、無理にはしゃいだふりしなくていいんだぞ」
「えっ」

と、ジョルジュはマントから取り出した手巾を投げて寄越した
和気藹々といわゆる惚気話をしているだけのつもりが、どうやら自分はボロボロに泣いていたらしい。黒づくめの格好をしていても、ハンカチは白なんだな。ナイスコントロールで手元に落とされたそれをぼうっと眺めながらそんな、我ながらずれたことを思った

「女に泣かれるのはお手上げだけど、男に泣かれても意外とどうにもできないもんだな。せめて未成年でなければ、酒かっくらわせて終了なんだけど」

目元と頬を拭うのを見ないようにしてくれているのか、そっぽをむきながらジョルジュは耳のあたりをぽりぽり掻いた。まさに自分は未成年なので、酒に酔うという感覚は未知の領域だが、浴びるほど飲んで溺れることで、いっときでもこの現実を忘れることができるのは、単純に、いいなあ、と思う。思うのだが……。テーブルに肘をつきあさっての方向を見ているジョルジュの上半身が、ガラス戸棚から覗く酒と思しきボトルたちを隠すようにそろ~りと傾いていったことに気づいた瞬間、変な声が出た

「……いや、いらないから……」
「あ、そう?」

意外とこれ高いんだよな、とつぶやきながらの、ジョルジュの心底ホッとしたような顔を見たらもう駄目だった。さっきまで泣きべそをかいていた筈なのに、いちどツボに入るとこみ上げてくる笑いを止められない

ひとしきり笑って笑い疲れたころ、そのタイミングを見計らったように新しいお茶が差し出された。先刻より丁寧に淹れてくれたように見えたのは、出せない酒のかわりということか
それをひとくち、ふたくちと服して、心の立ち位置がフラットになると、ここ最近の心情の推移パターンが確信づいて見えてきた。彼女への思慕に絡めとられたかと思えば、現況に至るすべての原因が己にあることへの自責の念に駆られる、そのくりかえしの堂々巡りだ。現に今だって

「……ぼくのせいでみんなに迷惑かけてるのに、ぼくは自分のことばかり考えて……勝手だよね」
「そんなことはないだろ。それはそれこれはこれ」

ここにくるまで日々延々と繰り返した悔悟を、ジョルジュはあっさりと否定した。否定して欲しいわけではなかった筈なのに、その即答っぷりに、呆気にとられると同時にふと心が軽くなる。それでもなお、昇華しきれないモヤモヤは残っており

「けど、やっぱりぼくが迂闊だったんだよ」
「迂闊って……。あのな、おまえの姉貴を見てみろよ。結構おおっぴらに変身したり、友達……なのかどうなのかよく分からんけど……を犬にしてみたり、ムチャクチャやってただろ。あれが周りにバレなかったのは、うまくやってたからじゃなくて、ものすごい奇跡だったんだと思うよおれは」
「そ、それは……まあ……」

強く否定できないのが何ともはや。その、頻繁に犬にされたお友達であり、自分にとっては先生でもあり、なにより最大の恩人であるそのひとが、最終的には犬を産んだこと、それに自分も一枚噛んでいることはなんとなく触れないでおいた

「あと、分かってないようだから一応言うけど、おまえの正体がバレたことと、バレて向こうを追い出されたことは、別問題だからな?」
「えっ」
「いや、『えっ』じゃなくて。……あっちの奴らがみんなあの子みたいな感じだったら、こんなことにはならんかっただろ。異質なものを拒む気持ちも分かるから、一概に人間達が悪いとも言えないけど」
「…………」
「結局、巡り合わせの問題だから、おまえも悪くない。無理矢理悪いところを探すとしたら……まあ、運は悪いのかもな」
「運……」

運という、どうしようもない領域のものとはいえ、この一連の事件における自分の「悪い点」を言葉で明確に挙げられたのは初めてだった。腫れ物にさわるようとまではいかないまでもなんとなく自分を気遣う家族たちからも、それとなく示されていたのかもしれないけれど
そういえば、と思い出す。一度きりと合意していたはずの無理なお願いを再び持ち込んできた子供に対して、彼は、うまく遠回しにいなすのではなく「魔界の掟を破らせるな」と容赦なくかつ現実的なことをきちんと言ってくれたのだった。シンプルイズベスト。昔の人はうまいことを言ったものだ

「そもそもみんな納得っていうか、腹くくって大暴れしたって聞いたぞ。これからのことは大人がうまくまとめていくさ。それが大人の役割だ」
「……そう、かな……」
「そりゃそうだろ。……早く帰れるといいな」

もっとも、おまえらがこっちにいてくれたほうがおれは面白いけどな。そう小声で言って、おひとよしのやさしい死神は笑った



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