科戸の風
罪と云ふ罪は在らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く
朝の御霧夕の御霧を 朝風夕風の吹き掃ふ事の如く (大祓詞より抜粋)
それはぼくが小学四年生のころ、ある日の休み時間のこと。授業終了の号令を背に先生が出ていくのとほぼ同時に、あからさまに憂鬱なため息をついたぼくを、前の席に座る彼女がぎょっとしたように振り返った
「ちょっ……風くん、どうしたの」
「あ! ご、ごめん愛良ちゃん。いや、あの……宿題がね」
「えっ? 風くん、作文苦手だったっけ?」
「いやあ……作文自体は嫌いじゃないんだけどね」
あたしは作文どころかお勉強全般苦手だけどね と彼女は笑う。うん、それはなんとなく知ってた……。と言っても、ぼくのあまりうまくない説明でいろいろすぐ分かっちゃうから、地頭はぜったい悪くない筈なんだけど
「……愛良ちゃん、ぼくの名前知ってる?」
「へっ? 知ってるもなにも……神谷、風くん……」
そう、『かぜ』じゃなくて『ふう』なんだよ というと、彼女は不思議そうな顔でこちらを見た
その日出された宿題は、『自分の名前の意味と由来を作文に書く』だった
「たとえば『洋風』とか言うでしょ。それって『厳密には洋ではない』んだよね。それっぽい、雰囲気だけって感じ?」
「えっ……」
「そういうことなんだよね、ぼくも。ぼんやりしてるんだ」
「ええ~? それは変なふうに考えすぎじゃない?」
「それ! その『ふう』だよ」
「…………」
いつもドタバタ走り回っている夢々と、おとなしく本を読むのが好きなぼく───風と。これまでずっと、名前が逆だねと言われてきた
けれどそもそもぼくは風にはなれない。ときに周りを巻き込んで吹き荒れるような激しさも影響力もぼくにはなくて、枠からはみ出さないよう、それっぽく、ただ穏やかに日々を過ごしていたい。ぼくは『かぜ』じゃなくて『ふう』。そういうことなんだ、きっと
「せめて『かぜ』だったらちょっとは違ったのかな、なんて……」
───こんな、名前のせいにしているところまで含めて
我ながらこんな考え方は、じめじめしているというか、両親への八つ当たり以外の何物でもないと思う。ぼくがこんな性格なのは、誰でもないぼくだけのせいで、いろいろ考えて名付けてくれたのであろう両親には、名前負けしててごめんねとむしろ謝らなくちゃいけないくらいなのに。こんなんじゃいよいよ呆れられちゃうよ……
と、そろりと視線を戻すと、神妙な顔で彼女は切り出した
「……風にも、いろいろあると思う」
「え?」
「えっと……竜巻とか台風とかみたいなのばかりじゃなくて、そよ風とか」
手にした鉛筆をタクトのようにくるくる回しながら彼女は続ける
「そよ風……」
「うん。春、そとを歩いていると、どこからかお花の香りがふわふわ~んとしてくるときあるじゃない?」
「ああ……うん、そうだね」
「そんなとき、やさしい風が吹いてて……あ! そう、そんな感じよ!」
話しながら彼女は突然なにかを心得たように、声を弾ませた
次から次へと繰り出される言葉を、なにひとつ取り落とすことのないようにしているつもりでも、おしゃべりな彼女の話題についていけていないことがたまに……結構ある。彼女の場合、それを問い直しても、たとえば夢々のようにイライラしたりせずに何度でもやさしく答えてくれるのが救いだけれど
「ん? えっと……そんな感じって、なにが?」
「風くんが! あたしは風くんとしゃべってると、そんな感じで気持ちがほわほわ~ってするの。だから風くんはやっぱり風属性だと思うなあ」
「…………」
それを言うなら、ぼくのもやもやをいとも簡単に浄化してくれた彼女は、光属性なんじゃないかなと思う
風になりたい。彼女がいつか迷ったとき、目の前の雲を霧を押し流すような風に。そう願い始めたのは、多分このときからだった
「ちょっと風! 新庄さんって知ってる? 卓おにいさまの部活のコーチ」
「……。知らない、けど」
出かけていた夢々が、帰ってぼくの顔を見るなり興奮気味に捲し立てた。相当急いで帰ったのか、ずいぶん息が切れていたので、冷蔵庫から冷えた麦茶を一杯差し出すと、夢々はごくごくと一気に飲み干す。その様子があまりにおいしそうに見えて、ぼくは自分の分も注いで席に戻った
「で、その新庄さんがどうしたの」
その名前を本当は知っていたけれど、なんとなく知らないふりをしておいた。つい最近───保健委員なのをいいことに、怪我して昏倒してしまった彼女に付き添ったあの日の放課後、彼女の相談に乗る形で直接聞いた思い人の名だ。うじうじ悩まずありのまま、爆発するくらいなら自分に正直にいくのが一番だとエールを送ったつもりだったけど
「そのひとと愛良が、最近いい感じらしいんだけど……あんた、いいの?」
「…………」
いいか悪いかで言えば。厳密には、よくはない───まさに、よい『ふう』
だからといってあの状況ではっきりと告白して、分かり切っている、かつ彼女の立場からしたら示しづらい答を求めるなどと、ただでさえ弱っている彼女をあれ以上追い込むことような真似はできなかった
ぼくが好きなのは笑顔の彼女で、いちばん大切なのはいつも彼女が幸せであることなのだから
「いいんだ、うん。……よかった」
彼女の悩みを吹き払い背中を押す風になることができたのなら、なによりも