月光の聖者達 ~Mr.Moonlight~ 01

 ひとり飯なのをいいことに適当に済ませた昼食の食器を洗っていると、居間の電話が鳴り響いた
 その番号だけ個別設定している着信音に吸い寄せられるまま、俊がいそいそとそちらに向かうと、ディスプレイの表示は設定どおりの番号を映し出している。が、肝心の発信者は、想定した相手と違っていた。彼女ではなく、その弟
 鈴世の声は、油断して出てしまった自分とは異なり、なんとなく緊張しているように聞こえた。そういえば彼と電話で話すのは初めてのことだった

「どうした、珍しいな」
「突然ごめんなさい。あの……最近おねえちゃんと会ってないよね?」
「うん? あ、ああ、まあ……」
「…………」
「いや、別に喧嘩したとかじゃないぞ。ちょっと用事が立て込んでるからって聞いてる」

 鈴世の、なにやら思いつめた様子の沈黙に、事実を返したつもりだったが、若干言い訳じみた言いまわしになってしまったのは、これまでの行いのせいかもしれない

 実際、しばらく忙しくなるのでこの部屋に来れないと言い出したのは彼女のほうだ。と言いつつ、夜食の弁当は変わらず届けてくれている。そんな、『会わない期間』が定期的に設定されるようになったのは、すこし前のこと

 不本意ながら自分がそうであるように、彼女だって、心はともかく身体のほうは、いつ何時も100パーセント互いのためだけにいられるわけではない。そして少なくとも自分は、会えないときにも彼女が自分のことを気に掛けてくれていることに感謝こそすれ、不満などあるわけがない。再び会えば、それまで同様『普通に』蜜月の時間を過ごす。会わない期間にただの1パーセントも寂しさがよぎらないのかというとそんなことはなく、いつも一緒にいられるのならそれに越したことはないし、ただの予約でも先延ばしでもないしっかりとした約束を分ち合ったうえで得た余裕というわけでもないけれど、会う期間・会わない期間も含め、それが自分たちのペースなのだと思い始めていたところだった

「だよね……。……おにいちゃん、いま、ものすごく忙しかったりする?」
「ん? そうでもないけど……。なにかあったのか」
「あったような、ないような……実はぼくにも分からないんだ。おねえちゃん、なにも話してくれないから……。でも、なんかすごく気になって」
「すぐ行く」

 人の心の機微に聡い鈴世のこと、彼女の異変に気づくことなど容易いことだろう。ただし、それを他の誰か(当然そこには自分も含まれる)に、おいそれと伝えてしまうかというと話は別で、誰かに伝えるのならばその旨、まず、きちんと彼女に許可をとるに違いない。そんな行程をすっ飛ばしてこちらに話を持ちかけてくるということは、そういうことだ。すなわち、のっぴきならない緊急事態。返事をしたのと、外出用のシャツを掴んだのと、それらはほぼ同時だった

「できれば、たまたま通りかかったって感じで……あっ、いや、とにかく来てもらえれば」
「わかった」

とるものもとりあえず俊は家を飛び出した








 あくまで突然やってきた風を装うから、細かいことはぼくにまかせて そんな頼もしい言葉に従い、伴われるままに俊は彼女の部屋に向かう

「おねえちゃん、おにいちゃん来てるよ。近所の用事がてら、ついでに寄ってくれたんだって」
「……えっ!?」

 軽やかなノックに対して返ってきたのは、驚愕というよりは拒絶に近い声だった

「お部屋片づいてるよね? 入ってもらうよ~」
「ちょ、ちょっと待って。鈴世っ……」
「……入るぞ」
「!!」

 身内ならではの遠慮ないテンポに倣い、俊は目の前の部屋にずかずか入り込む
 なにか書き物でもしていたのか、彼女が向かって座っているローテーブルに、鈴世が淹れて持たせてくれていたお茶を置き、そのはす向かいに腰を下ろしながら様子を伺うと、若干、顔色が青白いような気がしなくもないが、少なくとも外傷はなさそうだった
 『どこがどうとか、はっきりとは言えないんだけど……なんだかちょっとおかしいんだ。ぼうっとしてたり、突然思い立ったように部屋に籠って、ほぼ一日出てこなかったり』こんな、階段を昇りながら端的にされた状況説明がなければ、いつもの彼女とさして遜色ないと思われるのだが

「……その、たまたまこっち方面にくる用事があったから……どうしてるかと思って」
「どうしてるかって……元気よ~。ちょっと最近……忙しいけど……」
「そうか……げ、元気でやってるならいいんだけど……ええと」
「……。もしかして、鈴世に呼ばれた?」
「…………」

 自発的意思でやってきたわけではないことが開始1分で即バレするというのも、なんというか……
 沈黙はすなわち肯定となり、彼女はため息をもらしながら肩を竦めた

「もう、あの子ったら……。気を回し過ぎっていうか……真壁くんに会えばわたしが調子よくなると思ってるのよね。それは確かにそうなんだけど……いつもなら……」

 『いつもなら』と言った。明確に。じゃあ、その『いつも』ではないのであろう『今』は?

 この考えかたは非常に傲慢というか危険なのだが、正直、自分に会えば、多少の不調も吹っ飛ぶのではないかと思い込んでいた。なぜなら自分がそうだから
 少なくとも今の彼女にとってそうではないという事実は、この際、百歩譲って仕方のないことと諦めるとして、そうではないと態々口にするというのは、どうか。確かに、『らしくない』ような気がする。らしくない状態であってほしいという願望すらある

「……なにかあったんだろう? 少なくとも、鈴世が気を回したくなる程度には」
「…………」
「無理に話す必要はないけど……」

 と、肩に手を伸ばした瞬間、彼女は大袈裟なまでに後ずさった。テーブルの足に膝がぶつかったせいで、ぐらつきながらも、ふたりの間の距離はさほど変わらないまま彼女はそこにとどまったものの、言葉だけではなく行動で明確に示された拒絶のサインはなかなかの衝撃で、流石に動作が固まってしまう

「…………」
「! ち、ちがうの。あの……」
「すごい音したけど、大丈夫か」
「え? あっ、膝は大丈夫。じゃなくて、その」
「ならいい。……もし、出直したほうがいいならそうする」
「…………っ」

 やはり何かがおかしい。確信してしまった以上、そう口では言いつつも、なんの収穫もなく去るつもりなどさらさらない
 だが、動揺を隠すために声音を抑えたのが、かえって言葉に真実味を帯びさせたようだった。彼女は一瞬言葉に詰まり、膝の上でぎゅっと両手を握りしめながら、ようやくといった態で声を絞り出す

「帰らないで……。でも、お願い、それ以上近寄らないで」
「え? あ、ああ……」

 触れられたくはないが話はしたいということか。それだけでも一歩前進ではあるけれど

「ごめんなさい……」
「謝らなくていいから、茶でも飲めば。……おれが淹れたわけじゃないのに何だけど」
「うん……」

 こくりと頷き、彼女は目の前のカップに手を伸ばした。『最近、おねえちゃん、こればっかり飲んでるんだ』と見せてくれたローズヒップティーの赤い色が、今はやけに映えて見える。俊にはコーヒーを用意してくれており、その味がまた絶妙で、あいつは何から何までそつがないな、などと思ったりした








「血が……」
「ん? 血?」

 互いのカップが空になってしばらくしたころ、彼女はぽつりと呟いた

 血。……とるものもとりあえず駆けつけたとはいえ、道中、流血するほどの怪我をした記憶はない。腕から指先を目視確認し、念のため鼻の下をこすってみたが、久しぶりの対面だからといって興奮のあまり鼻血が出たりはしていなかったのでホッとする。……が。じゃあ血がどうしたというのか

「じゃなくて、あの……。すこし前に、いっしょに晩ごはんを作ったことがあったでしょう? 真壁くんが指をちょこっと切っちゃって……」
「ああ、調子に乗って千切りして、やらかした日か」
「そう。そのとき、絆創膏を貼る前に指を……というか、咄嗟に血を、舐めて……。今にして思うと、あの時点で既にちょっとおかしかったのかも」
「…………」

 それは夕飯にトンカツをリクエストした日のことだ。しゅわしゅわと食欲をそそる音を立てながらカツを揚げる彼女のとなりで、ならば付け合わせはまかせろとばかりに張り切ってキャベツと包丁を手にしたのだった
 おかしいかどうかで言えば、できもしない千切りキャベツに挑んだ自分も大概だったという自覚はある。が、案の定包丁の刃が掠めた指の節を、躊躇なく口に含まれたのには、確かに仰天させられた。こちらから半ば無理矢理指を突っ込んでみたり舐めさせたりする局面もないことはないというか結構あるが、あくまでそれはそういうスイッチが入っているとき限定のことであって、お互いに、日頃からそんな、所構わず濃厚な触れ合いをするタイプではないから

 ただ、忘れかけていたが、彼女の属性というか種族は、吸血鬼だった

「一応確認だけど……それ以前に、誰かの血を吸ったことは」
「ないわ。一回も。でも、そのときはなぜか、真壁くんの指ににじんでる血がものすごくおいしそうに見えて……気がついたら舐めてて、本当においしくて……。それ以来ずっと、真壁くんの血が欲しくてしかたないの……特に、この時期になると……」
「この時期って」
「月が……満月になる、ころ……」
「…………」

 そういえば、昨夜は月の綺麗な夜だった
 『月が綺麗ですね』などと、文学への造詣もロマンのかけらも持ち合わせていない自分ですら知っているフレーズをぶちかましたいわけではないが、満月の夜、それを眺める傍らに彼女は存在しなかった。だいぶ前から

 月の満ち欠けに体調が左右される───具体的には、満月に近づくにつれ、自らの意思に拘わりなく活力が漲り、その後は次第に落ち着いていく。そのこと自体は少し前にも打ち明けられていた。その時点では、彼女もまだ今のような切羽詰まった風ではなく、雑談の延長でにこにこと笑いながら、あくまで豊富な話題のうちのひとつに過ぎず、また俊自身にも若干ながら思い当たる節があったので、こんな造形をしていてもやはり互いに魔物なのだなと思う程度にとどまっていた。その後、潮の満ち干きに月の形───正確には引力が関わっていると知り、水の石に魅入られた彼女に対してはもしかしたら更に強く影響が出るかもしれないと、なんとなく気にかけていたつもりだったのだが

「今回は特にひどくて。突然、体の芯っていうのかな……が、カーッと熱くなって、それがちょっと落ち着いたかと思うと、ただただぐったりしちゃって……」
「これまで以上に、能力が暴走してるってやつなのかもな」
「わかんない……けど、そういうことなの、かも……」

 それを踏まえて改めて彼女を眺めると、確かに肌の色はいつもより白いが、髪の艶は増している気がするし、化粧をしているわけでもなさそうなのに、唇の血色もよく見える。暴走するエネルギーがそうさせているのか、肌の色との対比でそう見えるのか、久しぶりに会ったことで自分の目に妙なフィルターがかかっているのか、そのいずれもなのかは、俊にも判断つけかねるところだった

「もしかしたら貧血も関係あるかも? て思って、鉄分のサプリ飲んでみたりしたんだけど、ぜんぜん……。なのに、すごくお腹がすいて……でも、胃が、食べ物を受けつけなくて」
「食べてないのか?」

 こちらには毎日、弁当を届けてくれていたのに?

「あ、お弁当作るときには、ちゃんと味見したから安心して」
「そういう意味じゃない」
「うん……ごめんなさい、ちょっとふざけてみた。あまり食べれてないの。その……真壁くんの血の味が忘れられなくて。なにを食べても砂を噛んでいるみたいでおいしくなくて……」
「……褒められてるっぽいのは分かるんだけど……。今までそんな切り口で褒められたことないから、反応に困るな」
「そ、そうよね……ごめんね。わたしも何分初めてのことで……」

 話しているうちに、冗談を交える程度には余裕が出てきたということか。こわばっていた表情が少し和らぎ、なんなら(苦笑に近いとはいえ)笑顔も覗かせるようになった
 だが、それはほんの一瞬のことだった

「……もしかしたら、他の人の血でもいいのかなって……おとうさんについていって修行しようかと思ったんだけど。でもおとうさんはおとうさんで、最近は全然血を吸いに行ってなくて」
「ああ、そういえばそんなこと言ってたな」
「そうなの。だからといって、こんなこと誰にも相談できないし……。おふとんかぶってずっと真壁くんのことばかり考えてた……」
「…………」
「……たすけて……」

 と、消え入りそうな声とともに彼女はうつむく。寄るなと言われてももう無理だった。たまらず俊は手を伸ばす
 気に掛けていたつもりが、まったく気が回っていなかったうえに、図らずとはいえ、よりによって自分が、駄目押しとまでは言わずともその一因を担ってしまうなんて

「助けてとか、大袈裟なんだよ。そういうことは早く言え」
「だって……真壁くん、忙しいのに。こんなことで煩わせたくなくて」
「だから……! 『こんなこと』じゃないんだって」

 そのままぐっと引き寄せると、反射的に彼女は自分の口元を両手で覆った

「だ、だめ! はなして! 吸っちゃうかも、我慢できないかも……」
「いいよ。きっかけを作ったのはおれだしな。……ごめん」
「そんな……そんなつもりで言ったんじゃ……、あ!」
「……もう泣かなくていいから」

 彼女の手の力は意外に強かった。口元から無理矢理引き剥がし、唇を指先で辿ると、泣くなと言っているのに彼女の目には次から次へと涙が溢れてきた。目が大きいと涙の粒も大きいということか。彼女の顔に押し付けた胸元が濡れる感覚が、じわじわと急激に広がっていくのが分かる

「だって……もし、真壁くんが吸血鬼になっちゃったら……」
「……この言いぐさはどうかと思うけど、吸血鬼の能力だけに飲み込まれるほど、おれの能力は弱くない。おまえが一番知ってるだろ。信じろ」
「でも……」
「だいたい、今の時点でこんなごった煮状態なのに、もう一個能力が増えたところでたいして変わらん」

 なにひとつ根拠はないが、あながち間違ってもいないと思われる理屈を並べてみたものの、慰めになっているのかどうかはよくわからない。ついでに言うと、ずっと気にしていたのであろうところ重ね重ね申し訳ないのだが、それは俊にとってさしたる問題ではない

「何も言わずに避けられてるほうが、よっぽど調子狂う」
「…………」

 こちらの預かり知らぬところで苦しむだの泣くだの、もっての他な話だ

 固く居ずくまっていた体の力がふと緩み、彼女の細い指が俊の胸元、シャツを絡めるように把持する。改めて許可を得たものと勝手に解釈し、長い髪を静かに撫でると、俊の体温を確かめるように彼女は大きく息を吸って、吐いた。ごめんなさいと呟いたのにも気づいたが、謝る必要などどこにもないので、抱きすくめる力を強めることで聞こえなかったふりをした。けれど、ひとつだけ

「考えてたのは、血のことだけじゃないだろ?」
「……会いたかった……ほんとは、ずっとこうしてほしかったの……」

 どさくさにまぎれてこんな言質をとってしまうあたり、割と根に持つタイプなのかもしれないと今更ながら自覚する。そもそも、柄にもないと思いながらも、柄にもないと思っているのは自分だけだということを、そろそろ認めるべき頃合いなのかもしれない



→ 02