シュレディンガーの絆創膏

 その日の部室も活気に満ち溢れていた

 先の練習試合を期に、ボクシング部には入部希望者が殺到した。それから数ヶ月。ミーハーな動機でやってきた者は順当に脱落していったが、それでもそれなりの大所帯となった。そしてそれは、本当にやる気のある者だけが揃ったということでもある

 俊がこの部を創設したのは、学園の雰囲気とか体制とかいったものへのささやかな抵抗心が発端だった
 ボクシングをするにあたって、自身の成長を優先するならジムに集中すべきだし、そもそも群れるのは性に合わない。発起人としての責任は一旦さておくとして、部活動という形を継続する必要性は正直薄い。だが、後進が続くというのは案外と嬉しいことだった

 ジムのトレーナーに助言を仰ぎつつ、実技だけでなく、基礎体力や柔軟性を高める総合的なプログラムを立て実践する。アルバイトの合間を縫ってそれらの処理をこなすのは、いささか骨が折れるのだが、傍らでそつなく補佐してくれる有能なマネージャーのおかげで、いまのところ順調に進んでいる

 そのマネージャーが有能なのは、俊の補佐としてだけではない。部費や備品の管理や環境整備、その他雑用……。データ分析だけは頭脳派の親友(?)に任せているようだが、もともとの面倒見の良さも相俟って、マネージャーとして入部してきた女子生徒にも慕われているらしい
 こまごま・くるくると走り回るおさげ髪を、新人のパンチフォームに細かく調整を入れながら横目で眺めていると、いわゆる「普通の学生生活」を満喫しているようにも見え、部活動というシステムは改めて悪くないと思える

 それでもたまに、さまざまな偶然が重なって、面白くない事態が発生したりもする。彼女目当てで入部してきた不純な輩は駆逐……もとい、脱落していったので、俊の極めて勝手な、気分的な問題として なのだが

 「青山くん、だいじょうぶ!?」

 にわかに上がった声に振り返ると、名前の挙がった青山とそのスパーリング相手、新人マネージャーひとりが、なにやら慌てふためいているのが見えた。どうやらどこか怪我したらしく、俊が向かうより先に、救急箱を抱えた蘭世がその場に駆けつけてきた
 消毒液と脱脂綿を新人マネージャー──確か名前は赤石といった──に手渡し、蘭世は引き続き救急箱をごそごそと探る。するとなぜかすっくと立ち上がってその場を後にし、ロッカーに置いてある自分の鞄からポーチを取って戻ってきた。こっそり救急箱を覗くと、絆創膏を切らしているようだった

「どうした?」
「あ、真壁くん……。あのね、青山くんが口の端っこを切っちゃって」

 そう問いかけると、蘭世は小花柄のポーチから絆創膏を取り出しながら、軽く状況説明をした
 改めて言われずとも、それはなんとなく見て取れた。気になるのはどちらかというと、取り出した絆創膏を青山の口元に貼ろうとしている指先のほうだ

 ぎりぎり頬に触れてしまいそうなところを、さりげなく掴み止め、ついでに絆創膏も奪い取る。くまさんだかうさぎさんだか、何かのキャラクターが描かれたそれは、高校生男子の顔に貼るにはなかなか厳しいものがある

「いや、結構血が出てるし、これじゃ小さいだろ」
「あ! そ、そうかな? そうかも……」
「ちょっと……保健室で診てもらったほうがいいかもな。青山、保健室いってこい。ついでに、すこし絆創膏もらってきてくれ」

 頷く青山を尻目に、蘭世はさらに慌てて言った

「え!? それはマネージャーの仕事だよ! 元はといえば、わたしがうっかり切らしてて……。あ! じゃあ、わたしがもらってくる!」
「いやいや、絆創膏は急ぎでもないし、せっかく行くんだからそのついででいいだろ。……赤石、付き添ってもらっていいか」

 言葉の後半部分の解釈を意図的にねじ曲げて俊がそう返すと、なぜかはっとした顔をして蘭世は赤石とさっと目配せをする
 あくまでマネージャーの仕事として、蘭世ではなく赤石に依頼したつもりだったのだが、事態はそう単純なものではないのだと俊が知るのは、もうすこし後になってからのことだった






 そんなこんなで、その日の部活動も概ね無事に終了、解散の時間となった

 今日はアルバイトが休みのため、久しぶりに江藤家を訪問して夕食をごちそうになる予定だった
 俊は主に聞き役だが、他愛もない会話を楽しみながら、すっかり日が落ちた道を並んで歩く。話題のテーマが「部活動の今後」に及んだところで、俊は先ほど取り上げそのままになっていた絆創膏のことを思い出した

「そういえば、これ」

 ポケットを探り、財布に挟んでおいた絆創膏を差し出す。すると、蘭世の表情は曇り、絵に描いたようにしゅんとしながらそれを受け取った

「あ、あの。さっきはごめんなさい。うっかりしてた……」
「なにが」
「部室の絆創膏、切らしちゃってたから」
「ああ、そっち……。大事に至ったわけじゃないんだから、いいだろ。だいたい絆創膏なんて、みんな勝手に取って使ってるんだろうし」

 ご多分にもれず、俊も使った記憶がある。そして使った=在庫が減ったことを、蘭世に限らず誰かマネージャーに伝えた記憶はない。この点だけは反省した。明日の部員全員でのミーティングでの議題がひとつ決定した

「あと、止めてくれてよかった。冷静に考えたら、これじゃちょっと可愛すぎたよね」
「…………。まあ、それもあるけど」
「えっ?」

 キャラクターものという意味でもサイズ的にも、可愛すぎる絆創膏。使うのを制したのはそのためではあるが、そのせいばかりではない。そして俊としては、その話題には触れてほしくなかったというのが、正直なところだった

 互いにそんなつもりはなく、もし仮にあったとしてもねじ伏せるつもりではあるが、その指先すらも、他の男に触れるのは耐えられない。だから咄嗟に手が出た。それに比べれば些細なことなのかもしれないが、些細なことすら、日に日に許せなくなっていく

 『はなれられない』のは自分だけではないのだと『分かりあえている』

 にも関わらず。もしかしたら、だからこそ。それまでどうして気に留めずにいられたのか、分からなくなってしまった。たとえば、自分以外の誰か他の男に、心を砕くことだとか

「……誰にも、やりたくなかっただけ」

 心や体はもちろん持ち物も、ありとあらゆるものすべて、彼女のなにかは自分以外の誰にもあげたくないし、あげてほしくもない
 柄にもなく勇気を出してそう言ったつもりだったのだが、その後の反応を見るに、趣旨はまったく伝わらなかったようだ

「……えっ、真壁くん……。この、ねこちゃんの絆創膏、そんなに欲しかったの? だったら返してくれなくても……」
「いらん」
「そうなの? 本当に?」

 あのキャラクターは、クマでもうさぎでもなく猫だったらしい。ここにきてそんな真実は極めてどうでもいい
 そして、即座に拒否したのを、更に重ねて神妙な顔つきで確認してくるのも、できればやめて欲しかった……手元でぴらぴらと振られる絆創膏の猫と目が合い、俊はさらにいたたまれなくなる

「……いや、遠慮とかじゃないから」
「そう?」

 ようやく納得したのか、蘭世は絆創膏を鞄の中のポーチにしまう
 柄にもないことは言うもんじゃない。そうしみじみ思いながらそれを眺めていると、蘭世は、何か思い出したように「あっ」と小さく声を上げた

「そういえば、ね」
「ん?」
「赤石ちゃんって、青山くんのことをいいなって思ってるらしくて。だから、マネージャーみんなで応援してるんだけど……もしかして、知ってた?」

 なるほど、言われてみれば。昼間の一件では、件のふたりがうまいこと近くにスタンバイしていたような気がする。蘭世の言い分から察するに、ひとりがもうひとりの近くに寄せたポジション取りをしていた結果らしい。動機が不純なのは、男だけではなかったことがここで判明した。と言いつつ、自分たちもまんまとこういうことになっているので、その点、強く言えた義理はないのだが……

 青山の保健室送りにあたって赤石に声をかけたのは、マネージャーの仕事の一環としてだった。が。更に本音を言えば、蘭世を付き添わせたくなかったことが先に立つ。……改めて認めるしかない。動機がどうとか公私混同とか、他の部員に言えた義理ではない

「いや、初耳だけど……なんで」
「ふうん……?」
「……? なんだよ」

 じっとりとこちらを睨めつけられるようなことをしでかしたつもりはなかった
 だが、万が一、公私混同を咎められるのだとしたら、大人しく受け入れるしかない。そのつもりで問い返すと

「ううん? わたしの気持ちは分かってくれないのに、他の子のそういうのには気を遣うのかなって思っただけっ」
「はあ!?」

 薄々そんな気はしていたが、案の定の「どの口が」発言がきた。分かってくれていないのはどっちだ
 もっとも、今のいままで忘れていたのだが、彼女の場合、箱を開けるまで真実は分からないのだった。口にも顔にもしっかり本音が出ているようでいて、実のところ、特に最近はそうでもない。いわゆる小悪魔的というか、たぶん無意識にこちらを試すような技をしかけていたりもする

 真意が分からないにしても、あまりの対応にイラッとさせられたので、勢いに任せて腕を引く。そのままぎゅっと抱きしめると、面白いほどに両肩が跳ね上がるのが分かった

 住宅街に差し掛かる前の細い路地裏で、少なくとも現状は、人目を気にする必要はない。とはいえ、仮にも公の場で抱きしめるなど、公私混同どころかいろいろ駄目な気がする。が、そんなことを気にするだけ無駄というか、この程度の役得をもらっても、いろんな意味で足りない気がする。腕の中の天然からは

「え!? あ、あの……真壁くん?」
「……うるさい。もういいからちょっと黙っとけ」

 キャー! とか、どうして!? とか。よくもまあそこまでバリエーションを取り揃えたものだと感心させられるほどの心の悲鳴と、それ以上にどきどきと、うるさいほど伝わってくる心臓の音。それには、あえて気づかないふりをした