ギブミークッキー

 いつもなら、それが鳴り始めるが早いか自席を発つ、放課の鐘の音。それを最後のフレーズまで聞いてから、とある席を俊はおもむろに見やった。名簿順に並んだ席の一番端の列・あ行で始まる苗字の生徒が座るエリアにある席だ
 しかし、そこに当然いるであろう、何なら鐘の音と同時にこちらに猛進してくるのだろうと思っていた相手は、すでにそこから消え失せていた。広いようで狭い教室をぐるりと見回してみたが、その姿はとんと見当たらない

 今日の六時限目は技術・家庭科。俊を含む2クラス分の男子が木材加工に勤しむ間、彼女を含む2クラス分の女子は調理実習を執り行っていたという。作ったのはクッキー
 自分が実習に参加したわけでもないのに、俊がそのメニューを承知しているのはひとえに、昨日の帰りの道中で宣言されたからだった。『おいしいクッキー作るから、食べてね!』

 いつものように、俊の隣だったり後ろだったりをちょこまかとついて歩きながら、声も高らかにそう言った声の主はいま、先述のとおり行方知れず。机の脇に鞄が掛けられていないところを見るに、手洗い等のちょっとした離席ではなさそうだ。いつの間に消えたのか。こちらになんの断りもなく。──もっとも、昨日の申し出について、諸手を挙げて歓迎したわけではなかったので、厳密には彼女を責める権利もないのだろう。しかし思わず口をついて出る。「……なんなんだ、あいつ……」

 なにはともあれ。ここに留まる理由がなくなった以上、こちらもさっさとずらかるに限る。大きな包みを手にして迫りくるもうひとりの刺客・神谷曜子への当たりが強くなってしまったのは、釈然としない心境の憂さ晴らしというわけではない。……多分。『甘いもんは苦手なんだよ』と、声に態度におおいに出しつつ曜子の猛攻を一蹴し、俊はひとり教室を後にした






「真壁くん! 蘭世、見なかった?」

 教室から昇降口までは意外と距離がある。その廊下をずかずか進む俊を小走りで追ってきてそう問うたのは、同じクラスの小塚楓だ。手には鞄ともうひとつ、入れ口をきゅっとリボンで絞った紙袋を携えている。先ほど曜子が俊に押しつけようとしてきたのと同じものだ
 
「……見てないけど」

 よりによってそれを今おれに訊くな うっかり口から滑り落ちそうなのを俊はかろうじて堪える。常に無愛想な態度で過ごしているのが功を奏したのか、楓は、俊の口調や表情を特に気に留める風ではなかった。が、その視線は俊の手元を静かになぞっていった

「あの……荷物、それだけ?」
「は? そうだけど」
「…………。ええと……。このあと蘭世とどこかで待ち合わせてる、とか……」
「別に」
「そっか、ないんだ……」

 教科書や文具類を持ち歩く習性を持ち合わせていないので、俊の通学鞄は常に空っぽ。だが、鞄の薄さを咎められたわけではなかったらしい
 あるべきものが無い。ただし、無いことにそこまで驚いているわけでもない──そんな複雑な表情をした楓は、俊との間に微妙な距離を保ったまま廊下を進む。そして昇降口に着くと、すぐさまクラス別に分かれた靴箱へと走った。蓋を開いたのは、楓自身の靴箱ではない

「あ! 靴がない! やだ……ホントに帰っちゃったのかしら」
「まあ、靴がないならそうだろうな」
「うーん……。ものすごい落ち込んでたし、仕方ないのかなあ」
「落ち込んでた?」

 いつもの彼女の、元気にニコニコしている姿とはほど遠い印象の形容をするその言葉に、俊は思わず楓を見やった
 『落ち込んでいた』。にわかに信じがたい話だ。しかし、こと、今日に関しては。万が一にも物欲しげな顔を晒すような事態になってはならないと、その姿を目に入れないように過ごしていたので、実際のところは分からない。そして、そうなのだとしたら、何故?

「さっきの調理実習で……クッキー作ったんだけどね」

 彼女の靴箱の蓋を戻しながら、楓は続けた
 ただし、ここまでは俊もすでに承知している内容だ。昨日のうちから とまで、わざわざ明かすつもりはないが

「蘭世たちの班、オーブンの設定を間違えてたらしくて。焦がしちゃったの」
「へえ」
「といっても、丸焦げとかじゃないのよ? 食べようと思えば、なんとか……。でも、あの……これ言っちゃっていいのか分かんないんだけど……蘭世、真壁くんにあげたいってはりきってたから、反動がすごくて」
「…………」

 彼女のあまりの落ち込みように、そのまま側について慰めたかったのだが。楓は今日、実習後の片付け当番に当たっていたので、ホームルームの時間をまたいで実習室に残らざるを得なかった。そして片付けを終え急いで教室に向かったものの、そのころにはすでに彼女の姿はなかったのだという

「呼び止めちゃって、ごめんね。もうちょっと探してみるわ」
「……ああ」
「さよならっ」
「…………」

 と、楓はそそくさと靴を履き、校門へと駆けていく。彼女の家の方角へ向かう後ろ姿を見送ったあと、俊もまたゆっくりと歩き出すのだった






「…………はあ~~、……」

 蘭世は、自分のついたため息の深さと長さに、げんなりしていた
 
 すこしでも早く教室から離れたいと、放課の鐘と同時に飛び出してきたものの、まっすぐ家に帰るのも憚られ、公園に立ち寄った
 その公園は、中央に大きめの池をたたえ景観がよく、周りにぐるりと整備された遊歩道が近隣住民の散歩コースになっている。点在するベンチのひとつに腰掛けるその膝の上には、通学鞄と紙袋。班のメンバーで均等に分けたクッキーひとつひとつは軽いはずなのに、いまはどっしりとその重みがのしかかる

 『おいしいクッキー作るから、食べてね!』──なんの保証もないのに、無責任な発言をしたものだ。しかも、前日から
 そしてそんな発言をしたのなら、たとえ班の中で役割分担があったとしても、あらゆる工程に細かく心を砕くべきだったのだ

 粉をふるったり混ぜたりしながら自分は、うまくいくことばかり考え、彼に手渡すときのセリフをあれこれ練ることに気を取られ……舞い上がり過ぎていた
 調理という作業の性質上、実習は、参加することそれ自体のみに意義があり、仕上がりは成績に影響しない。また、今日の実習に賭けているのは自分だけで、他のメンバーにとってはそこまでのイベントではない。それがどういうことなのかを失念していた

 なにかを焼くというよりもむしろ、燃やしているような臭いを発するオーブンの扉をあわてて開き、皆でひととおりがっかりしたあと。実習前の説明をあまり真面目に聞いていなかったことを、なんら悪びれることなく暴露した一人のメンバーと、それを快く許した他のメンバーと。何事もなかったかのように穏やかな空気が流れるあの場において、引きつった笑顔しか作れなかったのはただひとり、自分だけだった(それでも、異変を感じ取った楓に実習室の端へ引っ張られ、やるせない心境を吐露することになったのだったが)

 いずれにしても。こんな仕上がりでは、彼に渡すことなど到底不可能だ
 とはいえ、家に持ち帰ったとしたら。おそらく家族全員に気を遣わせてしまうことだろう
 かといって、まがりなりにも食べ物(の体をかろうじて成しているもの)を、捨ててしまうなどもってのほか
 ならば。誰の目にも留まらないところで、すべて平らげてしまうしかない

 中身がこの始末なのに、ガワだけ飾り立てても仕方がない。そう思いながらヤケっぱちで結んだリボンのきつい結び目を解くと、袋から、焦げた臭いがじわりと立ち上る。それが目に染みたせいなのか、眼前に広がる池の水面に反射する夕日が眩しかったせいなのか。それまでかろうじて堪えていた涙がぐっとこみ上げてきて、頬をひとすじ伝い降りていった

「うそ、ついちゃったなあ……」

 自業自得のやらかしはいろいろあって、数え上げればキリがない。数え並べることで見ないフリをしていたけれど、一番のやらかしは──彼になんの言伝もしないまま、ここに逃げ込んできてしまったことだ。こればかりは、寸分の違いもなく自分ひとりのせいだ。うまくできなくてショックだったから だなんて、なんの言い訳にもならない

 明日、朝一番に謝ろう。許してくれても、くれなくても。そう意を決して蘭世は、膝の上の袋の中身・焦げたクッキーをじっと見つめた






「いいもん持ってんじゃねえか。おれにもひとつくれ」
「え!?」

 息を詰めて近づいたのは事実なのだが、この距離まで彼女は全く気づいていなかったらしい

 小塚楓とのやりとりの結果、俊は自分がいささか読み違えていたことに気づいた。彼女が行方を眩ました理由について──教室でクッキーを渡すとなると、いらぬ争いを生むことになる・その回避行動である可能性がある、と思っていたのだ。だから、こちらがいつもどおりを装っていれば、彼女もまたいつものように、どこからともなくやって来るかもしれないと踏んでいた

 だが、できあがったクッキーは人に渡せるような代物ではなく、なにより、彼女はひどく落ち込んでいたという。ここで『回避行動』の線は消えた
 そして俊は校門を後にするタイミングで、唐突に思い至った。わざわざ前日から念を押してきたのに、黙って帰ってしまった というよりもむしろ、念を押してしまったにも関わらず、黙って帰らざるを得なくなるほど、いまの彼女は憔悴している ということなのではないかと。なぜなら、やはり『彼女が』『自分に』そんな不義理を働くはずはないのだ、普通の状態であれば。考えても考えても釈然としない違和感の正体はこれだ

 そしてその後『なんとなく』立ち寄った公園で、俊は、ベンチに座るしょぼくれた背中を『たまたま』発見したのだった

 離れた場所に立ったままじっと目を凝らすと、彼女は、例の袋を開封し、中身を覗いた姿勢のままじっとしている。そこに普通に話しかけるのもつまらないので、彼女の背後からこっそりと忍び寄った。カツアゲ紛いの物言いとともに、膝の上の袋へベンチ越しに手を伸ばすと、予想以上の反応だ。振り向きざま、至近距離での悲鳴が耳を刺す

「ま、真壁くん! なんで!?」
「腹へってんだよ」
「じゃ、なくって! なんでここに……。あ、だめ! これ……すごい焦げちゃってるからっ」
「…………」

 彼女が驚くのも当然だった。その公園は、俊の通学経路からは少し離れた場所にある。至極まっとうな問いかけを、俊は沈黙でごまかした
 そして、彼女が体をくねらせ妨害するのを構わず、袋の中から適当にクッキー(と聞いているもの)を数枚ひっ掴んで口に放り込む。なるほど、もろもろ前情報どおり。それは咀嚼するたびに、強めの香ばしさを口の中にふりまき、ぼりぼりとすごい音が脳にまで響いた
 目をまんまるに見開き、慌てふためいていた彼女は、はたと何かに気づいた様子で制服のポケットをごそごそとまさぐった。そしてじっとこちらの様子を窺いながら、神妙な顔で口を開く

「だ、大丈夫……?」
「なにが」
「なにがって……。あの、おいしくないでしょ? それに、お焦げは体に悪いっていうし、その……ティッシュあるから」

 この流れで差し出されるティッシュの用途くらい、見当がつく。しかし俊はそんな気遣いを完全に無視し、口の中の食塊を喉が鳴る勢いで飲み込んだ

「おれは、ちょっと焼き過ぎてるくらいが好みなんだ。煎餅みたいでうまい」
「えっ!?」
「……いや、うまいっていうか……こういうものだと思って食えば、まあ……」
「いや~~~っっ!!」
「これだけ噛めば腹もふくれるし、ありがたい」
「…………」

 味へのフォローは早々に諦め、堅さのみにフォーカスすることにした。複雑な表情で沈黙した彼女の隣に回り込み、どかりと腰を下ろす。おかわりとばかりにさらに手を伸ばすと、彼女は抱きかかえるようにしてその袋を隠そうとした

「も、もういいよ、真壁くん……」
「なんでだよ独り占めすんな。ていうか、おまえも食え」
「へ? あ、はい……」

 製造者責任を迫るつもりはなかったのだが、逆にそれはそれで、彼女的には腑に落ちるところがあったらしい。袋からクッキー(と言い切るには些か支障があるもの)を一枚つまみ上げ、恐る恐る口に運ぶのを見届けつつ、俊もまた数枚取って口に放り込む。免疫がついた俊とは違い、彼女はことごとく微妙な表情でそれを飲み込み、おもむろに、一言こぼした

「…………。堅い……苦い……」
「健康な歯と胃袋にあらためて感謝できて、いいんじゃねえの」
「~~~~~っ」

 慣れというのはある意味恐ろしいもので、特に互いに促したわけでもないのに、ぼちぼちと口に運び続ける
 夕焼けが赤く景色を染めゆくなか、人影もまばらなその公園は、とても静かに時が流れる。しかしふたりの間には、大きな、そしてクッキーを飲み下すためというにはあまりにも長い咀嚼音が響いていた

 そしてめでたく(?)袋は空になる。それを丁寧に畳みながら彼女は、まっすぐに俊を見つめた

「あの、今日はだまって帰っちゃって……ごめ」「それで? うまいクッキーとやらはいつ持ってくるんだ」
「えっ」

 そんな彼女の言葉を食い気味に遮り俊がそう言うと、彼女は完全に虚を突かれた顔をする。理解が追いつかない様子で沈黙し、ようやく再び口を開く

「…………あの」
「実習でクッキー作るとは言ってたし、うまいクッキー持ってくるとも言ってた。けど、いつ持ってくるかは聞いてないだろ」
「え……。あ、ええと……、これ……」
「おれはこれをうまいクッキーとは断じて認めない」
「ぐっっ」

 無理矢理のこじつけが過ぎると思われたが、力技で畳みかければなんとかなるものだ。その流れに乗って、忌憚のない意見を付け加えると、彼女は言葉に詰まり撃沈する。それでもその瞬間に、彼女のまとう空気がそれまでずっとこわばっていたのが、なんとなく緩んだような気がした

「今度、作ってくるから……食べてくれますかっ」
「なんで敬語……。食う気がないなら、わざわざこんなこと言うかよ。ていうか『今度』ってのがいつになるのかを訊いたんだよ」
「あっ、そうか……そうよね! いつがいいかなあ……」
「いつでもいいなら、こっちで勝手に決めるけど」
「う、うん! わたしはいつでも大丈夫! ……ガンバリマス」

 少しずつ、彼女がいつもの笑顔に戻りつつあるのまでは、見届けることができた
 ──じゃあ今週末に、この公園で。なんでもないことのように、さりげなく言うために視線を逸らしてしまったので、その瞬間に彼女がどんな顔をしたのかは分からない