人形の夢と目覚め おまけ

 年を越えて三が日も過ぎ、世間のムードが「日常」に戻りつつあるその日。俊は、年末年始の休みを過ごした江藤家から自宅へ戻る予定にしていた

 荷物を鞄に詰め、滞在のあいだ使っていたこの部屋を軽く片づけて。立つ鳥とまではいかずとも、きちんと元通り、不備がないようにと注意深く見回していたところに、ひょっこりと望里がやってきた。その手には、トレイで受けた湯呑みがふたつ。テーブルを挟んで座ると、そのうちひとつをゆっくりとこちらに差し出した

「支度はもう済んだかい。まあ、多少忘れ物があっても、すぐ取りに来れる距離だけども」
「はい」

 大丈夫そうだね と望里は部屋を軽く見渡し、湯呑みに口をつけた

 荷物といっても、着替えしか持ってきていないので知れたものだ。どちらかというと、いまキッチンで蘭世が昼食を作りがてら用意してくれている、各種惣菜──帰ってから数日の朝食用にと山ほど持たせてくれるという──のほうが、大荷物になりそうな気がする
 むしろ、片付けを体のいい理由にしていつまでもひとりこの部屋にとどまらず、いい加減リビングに向かわないと。そう思い始めていた矢先での望里の登場だ。やはりぐずぐずし過ぎた。俊は恐縮しきりで俯くしかなく、褐色の茶に反射する照明の光をしばし見つめて……そろりと顔を上げたところで、こちらを眺める望里と目が合った

「この部屋はいつでも使えるようにしてあるからね。蘭世は言わなかったかもしれないけれど、定期的にお掃除もしているから」

 続いたその言葉の真意はなにか・真意を直球で言わないのはなぜか。そのどちらも俊には理解できる。そしてその心遣いは、とてもありがたかった

「はい……でも、もうすこし頑張ってみます」
「真壁くんが頑張っていることは、みんな分かっているよ。大丈夫。疲れたとき、蘭世のついでにわたしたちのことも思い出してくれれば、それでいいんだ」
「ありがとうございます。でも……さんざん甘えておいてどの口がって感じなんですけど。逃げ道をつぶしておかないと、際限なく甘えてしまいそうで」
「……逃げ道、か……」
「…………。あの、生意気言ってすみません」

 望里はただ静かに微笑んだ。優しい目だ。蘭世の慈愛に満ちた笑顔は、どちらかというと父親譲りのものなのだろう。下げた頭を戻しながら俊は改めて気づいた

「生意気だなんて思っちゃいないよ。その気持ちも分かるからね。逆にこちらこそ、その……恩着せがましいと思わないでくれるとありがたい。いまから言うことも」
「えっ」

 感謝こそすれ、恩を着せられるなどと思うはずがないのに。望里はぽりぽりと鼻をかきながらそんな前置きをした

「……これまでも、わたしたちはともにこの家で過ごしたね。いろいろあったし、今になってからこそ思えることかもしれないけれど、少なくともわたしはとても楽しかった。もちろん、今回の休みも」
「……はい。それはおれも……楽しくやらせてもらいました」
「だからね、ここが君の帰る場所じゃないなんて言わせないよ」
「…………」

 肩をすくめた望里は握り拳をそっと差し出し、俊はそれに軽く自分の拳で触れる。どちらからともなく笑みがこぼれた

 諭すふうでもなく、淡々と告げられた言葉が胸に染み入る
 優しいひとたちと過ごした穏やかな時間は、俊を絡め取るのではなく、ただいつもそこにあって俊を待ってくれているのだ

 階下から、ふたりを呼ぶ声がする。「ごはんよ~~」とよく通るその高音は蘭世のものだ。時計の針は二本とも天を指していて、それを確認した瞬間、急に腹の虫が活発になってきた気がする

「もうこんな時間なんだね。どうりでお腹が空いているわけだ。……降りようか」
「はい」

 ふたりはそろってその部屋をあとにした