SUMMER BREEZE 05
隠れようとしたところで、セキュリティに配慮されたこの施設においては、一般人が立ち入れるスペース=ココが隠れうる場所も限られる。身体能力にしても、この施設についての知見にしても、今この時点に限っていえば、ココが卓を上回ることはあり得ない
すなわち。逃げてはみたものの、卓の追撃の手をかわすことなどできよう筈もなく、ココが捕獲されるのにそう時間を要さなかった
「なんで逃げんの」
「なんでって……、だって」
「……。とりあえず、行こ」
ココの腕をとった卓はほっと息をつき、そのまま、愛良が待っているであろうスパエリアに戻るわけでもなく、ホテルエリアへと足を進める
ちょうどやってきたエレベーターに乗り込むと、すぐ隣に立った卓の手は、ココの腕から手へと滑るように移動した
手をつなぐことそれ自体は、なんら驚くことではない。しかし、いまの卓は制服姿だ。それは果たして、「アリ」なのか
「あの……」
「…………」
「!!」
そろりと見上げたココの言葉を押し止めるかのように、ココの手を握る力がぐっと強まった
それもあり、他の客がいることもあり、それ以上話しかけるのも憚られ、口をつぐんだままココは立ち尽くす
緩やかな上昇感にしばらく身を任せ、ひと組、またひと組と籠から降りていく客を見送り、ようやく再び話かけてもよいかと思ったところで、目的階に着いたらしい。卓は「ここで降りる」とだけ言い、ドアが開くのとほぼ同時にココの手を引いた
降りた先、上品な意匠が凝らされた、広く静かな廊下を、卓は無言のままずんずん進む。魔界城ほどの規模ではないにしても、このフロアだけでいったい何部屋あるのか。廊下に面したいくつものドアを横目に、なかば引きずられるようにして到着したのは
「トリートメント……ルーム?」
ココがドアプレートを読み上げたタイミングで、卓はそのドアをノックする。すると、中からドアを開いた女性が、こちらに向かってうやうやしく頭を下げつつ、ふたりを招き入れた
促されるままにココは、通された部屋中央にあるソファに腰を下ろす
ところどころに配置された観葉植物や、オレンジがかった暖かい電球色の間接照明。ふわりと漂うアロマの香り。混乱しつつも、とても穏やかなその空間に気をほぐされるように、ココは静かに息をつく
そのタイミングで、 先ほどの女性とは違う女性がもうひとり、テーブルになにか飲み物をサーブしながら、メニューブックと思われる冊子をココの目の届く位置で手際よく開いた
「体調悪いとかないよな?」
隣に腰かけた卓が、ココの顔を覗き込む
つい先刻まで、動悸があり得ないほど速かったが、それは体調の問題から来ているわけではない
「えっ。あっ、ないけど……」
「じゃあ問題ないな。よろしくお願いします」
「……へっ……??」
ココの返事とほぼ同時に、卓はその女性に頭を下げた。女性は、卓とココそれぞれに頭を下げたあと、主にココに向け、自身がセラピストである旨の自己紹介をする。まるでそれが既定の流れであったかのようなそれらの仕草に、ココは変な声が出た
ここまでの道中において、卓から、「ココが」「セラピストに」「よろしくお願いする」ような立場となることへの言及があっただろうか。いや、断じて、なかった……筈、なのだが……
「えっと……卓? これはどういう……」
「どうもこうも、そういうプランらしくて。とりあえず、顔でも身体でもどっちもでも、好きなメニュー選んでいいから。さすがにおれもこっち系の知識は薄いから、詳細はプロに説明してもらって」
「あの、そうじゃなくて……プラン? って?」
「まあ細かいことは気にすんな。んじゃ、終わったころ迎えに来る」
「え!? 迎えに、って……!?」
狼狽えるココが止める間もなく、卓はにこやかに速やかにその部屋を出ていってしまった
わけが分からないなりにも、みすみすおいてけぼりを食らうのはいかがなものかということだけは分かる
その場を足早に去って行こうとする卓を追うべく、ココは立ち上がり──立ち上がろうとして、「ご事情は伺っていますから」と、にこやかな笑みをたたえたまま告げてくるセラピストに、やんわりと、しかししっかりとソファに押し戻された
◇
そのまま、あれよあれよと勧められるままにココは施術を受けた。ことの真相がいまだ不明なままでありながらも、それはそれとして。穏やかなBGMが流れいい香りの立ちこめる部屋で、丹念に振るわれるプロの手腕は、ココを心身ともにリラックスさせたのだった
そういえば、ここに来る前の作戦会議で、愛良が、ホテル併設のリラクゼーションサロンの紹介記事を興味津々に眺めていた。スパエリアにあるサロンよりも一段階上の、ラグジュアリーな空間がどうとかこうとか騒いでいたのだが、多分それはこの部屋のことだったのだろう。あのとき、必要ない(お子様にはまだ早いと口にするのはかろうじてこらえた)からと止めたのだが、ちゃっかり自分だけ受けてきたと知られたら、どんな顔をされることか
みずみずしく潤う肌のやわらかさを実感しながら、ココがパウダールームを後にすると、施術前までココが腰かけていたソファには卓が座っていた。身につけているのは制服ではなく、私服だった
「艶々になりましたな」
「……う、うん……あの」
「まあ、ここで長話するのもなんだから。出よ」
「…………」
入室したときと同様、丁寧に見送られながらふたりはその部屋をあとにする
静かな廊下を進み、他に客のいないエレベーターに乗り込むと、卓はなぜかスパエリアとは異なる、中間階のボタンを押した。すなわち、愛良たちのもとへ戻るわけではないということなのだろう。じゃあ、どこへ? ココが卓の指先から横顔へと視線を移すと、卓は肩をすくめながらココの方へ体を向き直した
「……今日、泊まっていけるだろ?」
「え? 泊まってって……ここに? どういうこと?」
ココの問いかけへの返答はないまま、軽やかな到着音を合図に、エレベーターの扉が静かに開いた
その外で待っている客をすり抜け、卓は再び早足で歩みを進める
かろうじて、怒っているわけではないことだけは見てとれる。卓の表情は、いつもどおりの優しい笑顔だ。しかし、いまこの瞬間の行動について、何から何まで言葉が足りない。ゆえに、理解が追いつかない
気持ちがすれ違い続けていたころはともかく、いわゆる恋人関係となってからというもの、そんなことはなかった。なにをするにも決めるにも、卓はまず経緯なり展望なりを説く。そこに気が回らないほど、なにか焦っているということなのか──
長く続くフロアの最奥に位置する客室のドアに、手慣れた手つきで卓はカードキーをかざす。通された部屋・リビングの二面窓からは、木々の緑越しに広がる海と、遠くの諸島がぐるりと一望できた。その光景にココが目を奪われている間に、卓は、肩から下げていたココの荷物と、自身のボディバッグを、バゲージラックにそっと置いた
「部屋はここ」
「ここって……。あの、わたしは明日特に予定ないけど、愛良はどうかしら。それに、新庄さんは……」
「なんでそうなる……。おれとだよ! バイトは今からナシになったから」
「え!?」
なるほど、そうだ。私服。サロンに連行された時点では制服姿だったのに、迎えに来た時からは──いまの卓は、Tシャツにくるぶし丈のパンツを合わせたラフな出で立ちだ
「もしかして、クビになっちゃったの!? わたしのせい?」
「違う違う、休み! 明日の昼番まで休暇。代打が見つかったから。……まあ、代打っていうか、今後もおれ以上にこき使われるんだろうけど」
「??」
そこまで言うと、卓は、何を思い出したのか盛大に吹き出した。笑いを噛み殺しながらココをソファに腰を下ろすよう促し、落ち着いたところでようやく、ことの顛末を語り始めたのだった