「あーあ……どうしようかなぁ……」
手の中で転がる玉ねぎを眺めながら蘭世は呟く
いずれにしても、下ごしらえぐらいはしておかないと、と
気合を入れてみたものの
茶色い皮を剥いて、萎れた先っちょの部分を切り落として
未だに苦手なその匂いにため息をついた瞬間
案の定というか何というか、手の動きがお留守になってしまった
「……突然あんなこと言われても、困る………」
───今日の天ぷらは我ながら美味しく揚がってたわよね
衣もサクッとしてたし、かき揚げもバクハツしてなかったし♪
ちょっと遅めの晩ご飯をおさめて満足したお腹を軽くさすりながら
蘭世はひとり、ほくそ笑む
目の前の席できちんと重ねられた俊の器も、ペロリとたいらげた完食モード
もともと好き嫌いはあまりなくて、出したものは全部食べてくれるのだけれど
それでも食べる速さで、お気に入りかどうかは何となく判ってしまう
どうやら今日の夕食メニューは、合格ラインを越えていたようで
緩む頬を押さえながら、蘭世は食器を手に席を立つ
鼻歌交じりにスポンジを泡立て、よく磨き上げられたシンクに一旦重ね置いた食器を
要領よく洗っていく後姿を眺めながら、俊はおもむろに口を開く
『なあ』
『んー?』
『メシのことなんだけど
……明日から、先に食っててほしい』
『え』
もしかしてお褒めの言葉かしら? なんて
浮かれて振り向こうとした蘭世の動きが止まる
『どうし、て…?』
『…最近ずっと帰りが遅かったし、きっとこれからも遅いから』
ふと時計を見ると、針が示すのは22時半
確かに、床に就くまでの時間を逆算すれば、十分遅い時間帯ではあるけれど
でも、それよりも、たいせつなことは
『え、だってこれくらいなら私、全然待てるし、おなかもそんなに空いてないし…』
『そういうことじゃねえ』
『そういうことじゃねえ、って…じゃあ、どういうこと? さっぱり判んないよ!』
『………』
目の前の相手がついた小さくため息に、心が凍りつくのを感じる
そのとき洗っていたおそろいの茶碗を取り落とさなくてよかった
そんな気持ちも、一日経てば少しずつ変貌を遂げるもので
「───まったく、もうっっ!」
ふつふつと、お腹の底から湧き上がってきた怒りにまかせ
蘭世は、包丁を握っていた手に力を込める
「ひとりで先に食べたっておいしくなんかないし
だいたい、先に食べるったって、結局は
作るのも後片付けも二回に分けなきゃいけないんだから
こっちとしてはむしろ仕事が増えちゃうのよっっ!」
だんだんだんだんだん
キッチンに響き渡る音も軽やかに、端から、まるで親の敵ででもあるかのように
形もまばらにその実を切り落としていく
“みじん切りをするときは、上の方はつなげたまま包丁を入れて
今度は向きを変えて刻んでいくのよ”
そんな母の教えも、今日はあえて無視をして
「意地っ張りなのもいい加減にしてほしいわよねっ! なんでそこで黙っちゃうわけ!?」
常日頃から魚も捌く料理の腕を見越して、大きめのサイズを購入した俎板
いつもなら、お行儀よくそこにおさまるはずの玉ねぎが
あれよあれよとシンクに飛び散っていく
「そうやって肝心なことは言わないで終わっちゃうから
こうやっていつも私ばっかり空回っちゃって、わめいて、泣いて……」
「………っ」
涙が零れ落ちるのは
念入りに刻んだたまねぎが目にしみたせい?
空回って言い放った言葉について、謝るタイミングを逃したまま朝を迎えて
気まずい雰囲気のまま、静かに食べた朝食のトーストは、いつもより固くて苦かった
いつもなら家を出るその直前にくれるはずの抱擁も口づけも、今朝はなくて
挨拶の言葉だけ交わし、小さく手を振っただけ
「……う、え………っぅ」
ひんやりと冷たいフローリングの床に座り込んで
しゃくりあげる声が少しずつ嗚咽となり、号泣寸前
『ふたりでご飯食べなきゃ、ふたりで暮らしてる意味がないじゃない!』
そんなことに意味を求める自分のほうがどうかしてる
───だってもう、「ふたり」じゃない
「………」
稜線を描き膨らんだ腹部にてのひらを当ててみる
じんわり伝わってくるあたたかさと、脈打つ鼓動
ふたりの命がまじりあって生まれたもうひとつの命が、今まさにそこに在る証
それを告げた次の瞬間
出会った頃よりは遥かに変化したとはいえ、あまり自分の感情の起伏を露にしない俊が
くしゃくしゃの笑顔を見せて
ぎゅっと抱き締めてくれたことを思い出す
「………ごめ、……っなさ……」
今ならもう、判ってる
ある程度規則的な(食)生活をしなきゃいけない自分の身体を
気遣っての言葉だったってことくらい
そう、本当は判ってる
頑固で意地っ張りで、言って欲しいひとことはいつもなかなか言ってくれない
けれど、ものすごく、やさしいひと
でも、それでも
ひとつしあわせを知るたびに、後戻りするのが怖くなる
今となっては遠い過去に思える、出会ってしばらくの頃は
思い続けていられること、ただそれだけで十分しあわせだった筈なのに
これ以上を望むのはとても贅沢なこと
そう自分を戒めることはできても
ほんの少しの綻びも、全てを決壊させる糸口になりそうな気がして
気が狂いそうなほどうろたえる自分がいる
抱えた両手から溢れるほどのしあわせを
ひとかけらも取り落としたくないのだと
「───泣くな、バカ」
「!!」
不意に響く、耳慣れた声に顔を上げると
間髪入れずに顔面に押し付けられる、洗い立てのタオル
「あ、れ!? どうして……??」
「オーナーにどやされた。たまには早く帰れってさ」
「え、だって昨日は……」
「……細かいことは、どうでもいいんだよっ」
まじまじと自分を見つめる濡れた紅い瞳から目をそらし
ぽりぽりと、バツが悪そうに頭をかいて
強すぎず、でもしっかりと俊は蘭世の身体を抱き寄せる
「…………」
どうでもいい、ではなくて
人の思念を読み取れる自分とは違い
胸のうちに閉じ込めた言葉を言葉にしなければ半分も届かないことも
伝わってくるぬくもりに頼るだけではなくて
言葉にすることで安心させるのも時には必要だということも
判ってはいるのだけれど
「……昨日は、悪かったな」
「……う……わ……たしこそ、ごめんなさ……」
愛しさも焦燥も狼狽も
今日一日、他のことがまるで手につかなかった至らなさも
全部胸のうちにしまいこんだまま俊は
いちばん言いたかった言葉だけを紡ぎ出す
「………」
甘えているのが実際はどちらなのかも判っているけれど、敢えて口を閉ざして
声をあげて泣き出した蘭世の背中でやさしいリズムを刻みつづける