雨夜の月 ─── ぴーさま 著 「籠の中の鳥の原罪」によせて ───
「───あ」
何かがぽつりぽつりと静かに頭のてっぺんを打つ気配に思わず手をやると
次々と舞い降りてくる冷たい雫
部活のきついメニューにも、ようやく慣れてきたとはいえ
帰り道には流石にへとへとになっている体をさらに追い立てるように
冷たい雨が降り始めてきた
その日の天気予報は降水確率70%
何事においても、後悔するのは文字通りことが起こってしまってからの話で
秋から冬に掛けての不安定な気候という条件を差し引いても
7割という数値はかなり微妙なものだったのだなと
当然のごとく傘など忍ばせているはずのない鞄を未練がましく覗き込みつつ
卓は心持ち身を屈めるようにして、その歩調を速める
あの時も突然の雨だった
それは確か卓の叔父が倒れたという知らせを受け、親子ともども見舞いに訪問したときのこと
緊迫した言伝者の様子とは裏腹に、案外元気そうな叔父と叔母と両親が雑談で盛り上がるなか
おとなしく座っていられるほど良くできた子供ではなかった自分は外へ出て
自分よりも5つ年上だとはいえ、大人たちの輪に溶け込めるわけでもない従姉妹───ココも
その後をついてきて
久しぶりに対面したココは、驚くほどにその美しさを増していた
口元にはうすく紅がひかれ、光の加減でほんのりと輝き
身につけたリボンもドレスも、少女特有のそれとは異なり
ごてごてした感が押さえられた、品良くあっさりとしたものでまとめられ
おまけに、母のものとはまた違った、なんだかいい香りがする
「ねえ、どこまで行くのよ」
「俺に聞くなよ」
思わず投げかけられた言葉に、そちらを見ぬまま応える
うっかりそちらを向いてしまったら、そのままじっと見入ってしまいそうで
せっかく隣を歩いているというのに、もともと巧い言い回しができない性格も手伝って
ろくすっぽ言葉を交わすことなくこんなところまで来てしまった
「何よそれ!」
そんな言い種をされれば、相手だっていい気分にはならないのが道理というものだ
もともと、お世辞にも穏やかな性格とはいえないココ
流石にそこまでは成長しきれていないらしく、反射的に食いついてきて
さらに成長できていない自分は、例のごとく憎まれ口を返して
そのほんの一瞬のやりとりの間に
冷たい雨がぽつりぽつりと頬を打ち───
取るものもとりあえず、手をとって走った
小さなふたりを悪戯な雨から護ってくれるものを探して
泉のほとりに佇む大きな樹。その下であれば
豊かに生い茂る葉が傘となり、しばしの雨宿りを許してくれるに違いない
ちょうどぽっかりと空いたスペースに息せき切って飛び込む
かなりのペースで走ったせいで上がってしまった息を整えるココの
雨を避けきれず、しっとりと濡れてしまった髪とドレスを横目で見ながらポケットを探ってみても
その雫を拭ってやれるものはなく
出掛けに、身支度を整えながらハンカチの有無を尋ねてきた母の言葉を
いい加減に聞き流していた朝の自分を、卓は呪った
「……………」
ごそごそと制服のポケットを探る
身だしなみのひとつという意味合いも当然あれど
あの日以来、身につけるのを忘れたことがないハンカチを取り、額に垂れてきた雫を拭う
ここ最近、ふと折にふれ彼女のことを思い出す時間が増えた
胸の奥にあるのはとてもシンプルな気持ち。会いたいということ
会って、さらに奥底の、誰にも見せたことのない気持ちを他でもない彼女に伝えたいということ
───けれど
男はどんなときも愛しい女を護りきるもの
父はそんなことをひとことも口にしたことはないけれど
過去を耳にし現在を見ていれば、確かに伝わってくる
一筋の雨粒でさえもその身を濡らすことのないよう、彼女を護り通す
そんな確かな力さえ持たない今の自分に、果たして
安全な籠の外に鳥を解き放つ資格があるのかどうか───
あの頃とは違い、体だけは大きく育った自分を優しく護ってくれるような樹はここにはなく
少しずつその強さを増す雨を眺めながら、頼りなく濡れてゆく身をそのままに
卓はその場に立ち尽くす
* * *
卓ちゃんが男の責任がどうちゃらとか悩んでいた背景には
ある意味完璧な父親の存在があったのではないかと思うのですがどうでしょう
(わけのわからんことを言っていっぱい蘭世ちゃんを泣かせた過去は卓ちゃんには見えませんし)
* * *
【雨夜の月】 あまよ-のつき
雨の降る夜の月。あっても見えないものにたとえる
───『大辞林 第二版』(三省堂) より