「じゃあ、そろそろ帰ります」

魔界の王───自分の父親が消えてしまったというのに
何事もなかったかのように部屋へと帰ろうとした彼の言葉に
蘭世は思わず立ち上がり、その背を追った
それに気づき俊はこちらを振り返る

「なんだ?」
「……送る……」
「送るって……。気持ちはありがてえけど、そしたらおれはまた
 おまえん家まで来なきゃならねえじゃねえか」
「……あ……」

俊は苦笑しながら言った
確かに、この時間帯に彼が蘭世をひとりで歩かせる筈がない。そのことをすっかり失念していた
そして意外に頑固、加えて、多分、こと蘭世に対してだけは心配性
いくら本人がいいと言ったとしても、それを許さないであろうことも知っていたから
蘭世はすぐさま妥協点を提示し、食い下がる

「じゃあ……そこの通りまで……」
「…………」

肩をすくめながらひとつため息をつき、奥のソファからこちらを見ている江藤家の面々にぺこりと頭を下げ
俊は部屋のドアを開けた





「あんまり、気ぃ遣うなよな」
「う……」

“そこの通り”にまもなく差し掛かるころ、それまで無言だった俊の口がようやく開いて
蘭世は思わず言葉に詰まる

“気を遣う”そんなつもりはなかった
むしろ、こういうときは一時でも早くひとりにしてあげるのが“気を遣う”ということなのかもしれないのに
一時でも長くそばについていてあげたい 衝動的にそう思い、半ば強引についてきてしまったのだから

そんな蘭世の考えを読んでなのかどうなのか
俊は蘭世の頭をぽんぽんと撫でる
これじゃますますどちらが気を遣っているのかわからない

よせばよかった、かも…… 沈みゆく蘭世の顔を見ずに
俊がぼそりとつぶやいた

「接するヒマもねえうちに……だったからな」
「え」

思わず立ち止まり俊の顔を見る
自嘲ぎみに、薄笑いを浮かべながら俊は続けた

「おやじの死ってやつに、実感がまだわかねえってのもあるんだろうけど
正直、すっげえ哀しいと思えるまで、おれはあの人を知ることができなかったっつうか」
「真壁くん……そんな言いかた……」

言いかけて、唇が動かなくなる

彼と彼の父親との関係は、どうであったか


親子の情というものは
はいそうですかと沸いて出るものではない
はじめて対面するまでに抱いていた思慕はあったかもしれないけれど
ふたつの想いを絡め紡ぐべく、空白の時間を取り戻すべくようやく動きだした矢先で訪れた
あまりに不幸な出来事だった

また、自分は幸運なことに身内との哀しい別れを体験したことは、まだない

両親がそばにいるという幸せを当たり前のように享受し、失う痛みをまだ知らない自分には
何を言う資格もない
そう、誰かに言われた気がした

───それでも


「う…………」
「……って、うわ!? な、なんでおまえが泣くんだバカ」

ぐぐっと涙がこみ上げ、こぼれ落ちる
ふと蘭世のほうに向き直った俊は、ぎょっとしてジーンズのポケットをまさぐる

「わ、悪い…ハンカチ忘れた」
「ん……だいじょう、ぶ…………ぅ」

自ら拭おうとした蘭世の指を押さえ、俊は指先で涙をすくう
恐る恐る動くその腕に従い、揺れるシャツの裾をつまむ

「……わたしは……」
「うん?」

手を止めて俊は蘭世の顔を覗き込む
潤みをたたえながらも、強く、まっすぐにその瞳は俊を見つめていた

「わたしは、ずっと真壁くんのとなりにいるから」
「……なんだ、イキナリ」

言いたかったことが、唐突に判った

「わたしは、絶対、真壁くんをひとりにはしないから……」
「…………」



気を遣ったわけでもない。慰めたかったわけでもない
少なくとも、わたしはずっとあなたのそばにいたいのだということ
ただ、それだけを伝えたかったのだ




胸の奥、無意識のうちに封じ込めるのが癖になっていた感情の封印が解け、一気に溢れ出す
少なくとも、ここでは
自分を偽る必要など微塵もないのだということを
俊は唐突に思い出した




ふうっとため息をついて、俊は一瞬その肩を落とす
もたれかかるように蘭世の首筋に鼻先をうずめ、背に腕を回した

「……悪い……」
「え」
「少し……このまま……」
「………あ」

蘭世を包み込む肩が、かすかに震える


おとこのひとはみなこうやって泣くのだろうか
ふと、そんなことを思った


どうかお願い
今だけは、わたしたちを照らさないでください

このひとの涙を隠すには
わたしの腕は短すぎて
わたしの胸は小さすぎる




どうすることもできず見上げた夜空の、雲の切れ間からこぼれる月の光が、痛い