ついさっきまで一緒にテレビを観ていた卓と愛良が、眠たげな目をこすりながら部屋へと戻るのを見送り
今リビングにいるのは、俊と蘭世の二人きり
にぎやかなアニメのエンディングから、番組のつなぎのCMに切り替わった画面を
かちゃかちゃいじり始めた俊の空けたグラスを下げながら、蘭世はふと思い出したように問いかけた
「あ、そうだ……あした、卓と愛良のことみててくれる?
美容院に行ってこようかと思ってるの」
「ふうん……。明日は別にどこにも行くつもりはなかったから、それくらい問題ないけど
切ってくるのか?」
そんな、いつもなら改めて問うたりしないことをめずらしく尋ねたりしたのは
虫の知らせだったのか、単に他に意識を取られることがなかったからなのかは判らない
けれど、それに続いた蘭世の言葉に、俊は一瞬頭の中が真っ白になった
「ええ。いい機会だし、この辺まで切っちゃおうかなと思って」
「…………………………え?」
“この辺まで”を示す指が漂うのは、肩のちょっと下あたり
そこから更にゆるいウエーブを描き垂れ落ちる部分のほうが、遥かに長いというのに
なんでもないことのように蘭世は、にこにこと微笑んでいる
「……いや、ていうか、そ……んなに、か…………?」
「え? ええ……だいぶ傷んじゃってるしね」
「見た目、全然わかんねえだろ」
「ところがそうでもないのよ───……先っちょの方は、色、変わっちゃってるし」
「…………」
目の前ににゅっと突き出された毛先を改めて眺めてみても、俊にはその違いがいまいち判らない
「それに、ほら、愛良の入園式が近いじゃない?
このくらいの長さのほうが、アレンジしやすいのよ
キレイなママで出席してあげたいし、ね」
「……卓のときは、切らなかっただろ……」
「それは、そうなんだけど…………
あなたも、わたしにちょっとぐらい変化があったほうが楽しいでしょう?」
「……………………」
我ながらよく喋るようになったとは思うけれど
肝心なときに、巧い言い回しができないのは相変わらずだ
細かな変化も試行錯誤も必要ない
ただそこにいるだけで、充分に美しいと思い
ただそこで笑ってくれるだけで、充分に楽しいと思えるというのに
なにを “しても” “しなくても”、そのままの彼女が
「───」
「ね?」
「…………わかった」
「ふふ。ありがとう」
「…………おれが、切る」
「え!?」
唐突な申し出に、俊の不器用さを本人と同様に(あるいはそれ以上に)よく知っている蘭世の表情が
瞬時に二重の意味で凍りつく
「……なんだ、その顔……」
「え!? う、ううん! 別にっっ」
目を泳がせながらぶんぶんと首を振る
否定されているにも関わらず、なんだか引っ掛かってしまうのは、気のせいだろうか
「……細かい調整は明日やってもらえばいい。店、予約したんだろ?」
「え、ええ……それは、まあ……」
「じゃあ、鋏と……なんか敷くもの」
「……は……、はあい……」
有無を言わせぬ迫力に、蘭世は頷くしかなかった
「じゃあ……お願いします……」
「ああ」
卓の髪と愛良の髪とを整えていたこともあり、道具だけは完璧
髪切り鋏を構えた俊の前に、ケープをまとった蘭世が腰を下ろす
しゃきしゃき、と、二・三度空切りをして俊は、目の前で波打つ髪に手を掛ける
「……これは……この辺を切れ、ってことか?」
「そう。折角だから、切った分は取っておこうかと思って」
「…………」
その髪は、背の中心よりすこし上のあたりで、ひとつにゆるくくくられており
くくったゴムの上を切れば、切られた部分はまとまったまま落ちるという仕組み
絡み合ったゴムの結び目をじっと見ながら、深く息を吸い、吐く
妙な汗が背中を伝うほどの緊張感がその場を包み、なんだか蘭世までドキドキしてきた
「………切るぞ」
「は、はい……」
右から刃を差し入れ、少しずつ力を込める
ぷつぷつと細かく響く、髪と髪が切り離されていく音に、思わず息を止める
変化をもたらすならせめて自分の手で などと思ったのは甘かった
心なしか、手が震えていたかもしれない
「………………」
頭にかかる重さが徐々に少なくなっていくのを感じながら、蘭世は
断ち落とされる髪に何度唇を寄せられたかな、と思った
髪を切ろうと思ったのは、単純に、気分転換と愛良の入園式への準備。ただそれだけで
そうしなければいけない という“必要性”があったわけではないから
ちょっと早まった、かな…… そう思ってしまったりもするけれど
逆に言えば、再び育む楽しみができたということでもある
それを片時も離れずに見ていてくれるひとの隣で、少しずつ
刃の咬み合う金属音とともに、完全に支える力を失った髪が俊の手にくたりと落ちる
切った根元と切られた毛先とを交互に見比べ、ふたたびため息をつく
なにをしてもしなくても、そのままの彼女を愛している
けれどやはり自分は、彼女の長い髪をも愛していたのだということを、改めて実感させられた
「………………」
鋏と手の中の房とを、そっとテーブルの上に横たえて
俊はもたれかかるように、背中から蘭世を抱きしめる
───なんだか、どっと疲れた
「あなた……」
「………………」
「髪はすぐ伸びるわよ。───ね?」
「…………それくらい、判ってる……」
沈んだ気持ちもほんのひとときだけで
髪が長かろうが短かろうが
腕に手を添え、にこにこと微笑むその笑顔にはかなわないということも、本当は