「あ、明日はもしかしたら、ちょっと遅くなるかもしれないから」
「え? ───ああ、魔界に行ってくんのか? 何ならおれも一緒に……」
「ううん、アルバイト始めることにしたの」
「…………はぁ!?」
ごはんも食べ、風呂も入ってあとは寝るだけ
そんな中、ごく当たり前のように言い放たれたココの言葉を
最初は、純粋に聞きまちがいかと思った
けれど
聞きまちがいであってほしいという願望が、自分のどこかにあったのかもしれない
今になって思えば、そんな気がする
とはいえ、この時の卓は、こう繰り返すしかできなかった
「ていうか……バイトって、何だそれ、いきなり!?」
こと、目の前に座る世間知らず(というよりは“人間界知らず”)のお姫様にとって
そもそも、“アルバイト始めます”はあまりにも唐突すぎる
王女という身分に似つかわしくない性格上、裏でも表でもさまざまな経験を積んできたかもしれないけれど
それは結局のところ、魔界の王女という身分に守られたものに過ぎないのだ
卓の部屋と、真壁家と、魔界と
それ以外の場所へひとりで出掛けていくこと自体、本来であれば一大事
なのに当の本人はけろりとしたもので
「そりゃそうよ。だって、今日決めてきたんだもの」
ほら、とばかりに、何か紙を差し出す
それは、ふたりの住む界隈で、なかなかおいしいと評判の洋菓子店のチラシ
特にそこのガトーショコラは絶品で、甘味を特段好んでいるわけではなく
唯一、母の作るものしか自ら口にしようとはしない卓をも唸らせる味わいだったから、覚えがあった
それをはじめ、おいしそうなケーキの名前がつらつらと並ぶ隅っこに
“女性販売員募集中”の文字があり、さらにご丁寧に赤くマルがついている
「…………」
「ケーキを作るとか、難しいことはしないみたい
お客さんが言ったケーキを箱に入れて、お会計して……まあ、お店番よね」
「…………」
「そうそう。店長さんに、お嬢さんみたいな美人だったら、ケーキの売り上げが
ぐんぐん伸びちゃうな! って言われちゃった。いい人そうなのよ」
「…………おまえさあ……」
「え?」
「勝手なこと、すんなよな……」
「!?」
ココの表情と、その場の空気と
ぴしっと固まる音が聞こえたような気がした
あとは、毎度お決まりのパターンだ
“───別に、心配してくれなんて頼んでないでしょ!?”
昨夜最後に聞いた、寝室のドアを力任せに閉めながらの金切り声(そして結局卓は居間に寝ることになった)が
頭の中をぐるぐる回る
それを打ち消すように、卓は道端の石を蹴飛ばした
今日のバイトは、他のメンバーにシフト交替を頼まれ、急遽休みとなったうえに
大学の講義にも必修科目がないから、久しぶりにふたりでゆっくりするのもいいかもしれない
そう思っていた矢先での、あのやりとり
いま現在、自分がひとりでいるということ それ自体は、卓自身ぎりぎりまで予想できなかったくらいなのだから
仕方のないことなのだと頭では理解しているつもりなのだけれど
純粋にココのことを案ずるのと同時に生じた、おいてけぼりをくってしまったような感覚が
卓の怒りを助長させたことは否めない
そもそもアルバイトがしたいというのなら、仕事を決めてくる前にまず自分に相談していれば
こちらだってそれ相応の対応ができた筈なのだ
出がけに、まだ卓が寝ていることに気づき起こそうとしたココに、今日は休みだからとだけ告げたけれど
その直後のココの顔を見ることはできなかった
彼女は冷ややかに、そう、とだけ言って部屋を出て行った
どちらかといえばむしろ自分に苛々しながら寝なおして、寝れないまま時間ばかりが過ぎ
結局、身支度もそこそこに卓も部屋を出て───
「………まあ、大体、あいつに、人に頭下げるなんてことができるわけねえんだよ……なっ」
蹴飛ばした石を追いながら歩いて、ふたたび蹴飛ばす
石と、そして卓が向かうのは、例の洋菓子店
かわいらしいケーキを売る店員というイメージ“だけ”にひかれ、バイトを決めてきた───大方そんなところだろう
けれどそんな見た目とは裏腹に、販売業というものはそれだけで思いのほか神経を遣うものだ
多少、ふたり暮らし≒貧乏生活になれてきたとはいえ、
上げ膳据え膳、周りは自分にかしずくのが当たり前、な暮らしが未だ体に染み付いている彼女に
人様にものを買ってもらうようなことができるものか
そうタカをくくっていた卓は、こっそり覗き込んだ店内の様子にしばし呆然とした
「……マジかよ……」
流石に“客足がぐんぐん伸びる”とまではいかなかったようで、店内にいる客は三人
しかし、なぜかその全てが男性だった
この店へは、母に連れられてやってきた数回の記憶しかないものの
そのとき客層を占めていたのは女性ばかりで、どこか居心地の悪さを感じていたというのに
客が指を差すのに従い、パティシエスーツをまとったココが次々とショウケースから商品を取出し、箱に詰める
にこやかに微笑み、ぺこりと頭を下げながら箱を渡すと
客はでれっとしながらそれを受け取り、手など振りつつ店を出て
それを見送りながら次の客、そしてまた次の客と、変わらずにこやかに応対
日頃のワガママっぷりはどこへやら、普通の店員を巧く演じている姿にひどく驚かされ
同時に、なぜか胸に刺すような痛みが走った
───その痛みで、卓はすべてを理解する
事前に相談があれば なんてのは
見当違いの言い訳
自分がいないと彼女にはなにもできない そう思い込んでいたけれど本当は
自分がいないと彼女にはなにもできない そのままでいてほしかっただけ
そのいい証拠に、いまの自分はどうだ
ココがなにか失敗したから、なにもできなかったから ではなくて
ココが自分に助けを乞うことなく、ひとりできちんと仕事をこなしていることに
胸が痛んだのだ
口では、下手な子供より手がかかるとか言いながらも
いざ、自分と同じ世界に立っているのを見ると、いいようもない不安に駆られる
勝手なものだ
籠の中から解き放したのは自分だというのに
「……………」
がしがしと頭をかきむしり、卓はきびすを返す
こんなところにまで何を見にきたのか───そんなこと、自分でもよく判らない
「ただいま───……って、きゃあ! な、なにやってんのそんなとこで!?」
陽がさほど落ちないうちにココは帰ってきて
ドアを開けた瞬間、居間へと続く廊下に座り込んでいる卓の姿を見つけ、慌てて飛びすさる
それには答えず黙ったままゆらりと立ち上がり、卓はココの肩を抱き寄せた
「え? あ、あの……卓?」
「………………」
昨夜の喧嘩だって、自覚がなかったとはいえ、とどのつまりは自分の八つ当たりだ
悪かった とか、ごめん とか、言わなければいけない言葉は判っているのに
どうしても口にすることができず、言えないかわりに強く抱きしめようとして
腰に回した腕をなぜかゆっくり押しとどめられる
「あ、あ、ちょっ……。ダメ、卓」
「え?」
「おみやげが……つぶれちゃう。はい、これ」
「………………」
「……あそこのガトーショコラ、好きでしょ? 取り置きしといてもらったの」
そういってココが差し出したのは、例の洋菓子店のロゴの入った小さな箱
ココが同席している場でケーキを食べたことなど、実は記憶にない。あったとしても一度か二度のはず
性格上、その場ではもちろん後からも、自分はこれが好きだなどとペラペラ喋ったとも思えないのに
どこからかそれを知り、覚えていたということなのだろうか
「コ………」
「で。………バイトは、辞めてきたわ」
「は?」
目にしたのは一瞬だけだったとはいえ、こちらが凹まされるほど順調に働いていた姿からは思いもよらない言葉に
卓は目を白黒させてしまった
ケーキの箱を取り落とさなかったのが、不思議なくらいだ
「え……な、な、なんで………」
「ん───?」
ココはしゃがんで靴を脱ぎながら、しばし考えるようなそぶりをする
もしかしたら、自分の歪んだ感情がどこかから漏れだしてしまっていた、とか………
一瞬のうちに、そんな、あながちあり得ないとも言い切れない想像をしてしまった卓の
こめかみのあたりに一筋、冷たい汗が流れた
「ああ、別に何かあったってわけじゃないんだけど」
「………え、あ……そ、そうか、じゃあ………」
妙におどおどしてしまった卓の心境に、気づいているのかいないのか
ココはしゃがんだまま卓の顔を見上げてにっこりと微笑んだ
「“いらっしゃいませ”より、“いってらっしゃい”と“おかえりなさい”を言えたほうがいいしね
ケーキ食べましょ」
そういえば、“おかえり”のひとことすらまだ言えていなかったことを卓は唐突に思い出した