「………チッ」
突然降り出した雨の中、彬水は腕時計を覗き込み、小さく舌を鳴らした
そして再び走り出す
久しぶりに会うというのに、遅れてこそいないものの、約束の時間ぎりぎりになってしまった
額に手をかざし駆け込んだ待ち合わせ場所に、愛良の姿はなく
そこから少し離れた店の軒先からこちらを見やり、大きく手を振っているのが見えた
慌てて彬水もそちらへ走りこむ
「傘、持ってなかったのか、悪い」
「あ───……うん……忘れちゃった………」
雨そのものの勢いはそれほどでもないものの、風が強く、吹き込んだ雨粒の跡がいくつも
制服の膨らんだ袖に残っていた
彬水はハンカチを取り出し、静かにそれを拭う
「わわ! だ、大丈夫だよ、新庄さんっ」
「いいから。………だいぶ待たせちまったか?」
「え? ううん、全然! 時間ぴったりだよ。それより新庄さんこそ……」
ますますぬれちゃうよ、と
握り締めていたハンカチを手に、彬水の肩を見ながら背伸びする
「……しかし……そんなデカイ鞄なのに、傘も持ってないって……。なに入ってんだよ」
「え? う───んと……お弁当箱と、お菓子と、手帳と………」
「は?」
開いた鞄を覗き込むと、毒々しいパッケージの飴やらガムやらチョコやらが
これから遠足にでもいくのかという勢いでひしめき合っていた
(それにしても、教科書等の姿がまったく見えないというのは、学生としてはどうなんだろう)
「まじで食い物ばっかじゃねえか! ………太るぞ?」
「太りません! その分、ちゃんと運動するしっ」
太るという単語にムキになって反論してくるあたり、お年頃というヤツなのだろうか
もう少し肉がついてもいいくらいなのに、と
全てを拝ませてもらった身としてはしみじみ思ってしまうのだが
「あ───はいはい、みんなそう言うよな……
に、しても、甘ったるいもんに偏りすぎじゃねえか?」
「ふふ、よくぞ聞いてくれました!
ほら、たとえば突然なにかの災害に遭ったとしても、甘いものを持ってれば三日は生き残れるでしょ?
人生、なにがあるか判らないじゃない? 常にサバイバルに備えておかないとね!」
妙に得意げに主張する姿に苦笑しつつ、鼻の頭をぴんとはじく
「……その“なにか”よりも、当たる確率が確実に高そうな、雨を避けることを考えろよ……
ほれっ」
「わ───い、さっすが新庄さん!」
とりあえず目的地まで走ること。それにばかり気を取られ、開く間も惜しく閉じたままだった傘を開く
濃い青色の生地に護られる領域は思いのほか広く、愛良と、同じく細身の彬水が並んで入っても充分に余りあるほどで
複雑に入り組んだ骨組みのあたりを見上げた愛良は、妙に嬉しそうな声を上げた
「うわあ、大きい……空も飛べそうね」
「へ? 空?」
「うん、風に乗って。……新庄さん、小さい頃にやらなかった?
こう……傘を持って、塀の上とか土手とかから、ぽ───んって飛び降りるの」
「やらねえよ! なんだそれ!?」
その姿が鮮やかに浮かんでくるあたりが、何ともはや
よく言えば行動的、早く言えば無鉄砲な目の前の相手の幼少期が、ありありと見て取れる気がした
「なんだそれ、って……。もう、夢がないなあっ。おじさんはこれだから───……」
「うるせっ」
男と女の文化の違いかな、とも思う
例えば、洗いたてのシーツをマント替わりに巻いて
手を広げ地を蹴る勇気さえあれば、空も飛べるはず
自分もそう思っていた
けれど
ひとりで空を飛ぶことなど、所詮、無理なのだと悟ったのも
大分昔のことだ
対して目の前の相手は
時折、空を飛ぶよりも難しそうなことをさらりと言ってのける
その自信はどこから来るのか
現実社会を知らない若さ故なのか
万能の力を持つ相手とそうでない自分と、種族の違いからなのか
───能力も命の期限も、全てが異なる相手と自分との、差分ということなのか
『おれがおまえを守ってやる』
あのとき自然にこぼれ落ちた言葉は
紛れもなく、自分の本心から出た言葉だ
そばにいるときはそれこそ命を懸けて護る
そのことに、なんのためらいもない
───けれど、その後は?
ほぼ確実に、自分が先に逝くということが分かっているのなら
傷が小さいうちに、他に目を向けるよう促すのが
本当の意味での“護る”ということなのではないか?
雨は苦手だ
濁った空の色に引きずられて、余計なことを考えすぎる
視界が霞み、遮られてしまうというのに
日頃、見ないようにしていることが、目の前に次々と鮮明につきつけられ
澱みの中、身動きが取れなくなる───
「……新庄、さんっ」
「……………、と。あ、悪い……」
隣を歩いていた愛良が抱きついてくる気配にも、全く気づかなかった
かなり長い間、自分は自分の内に入り込んでしまっていたのだろう
腰に手を回したままの格好で、彬水の顔を見上げ愛良は問いかける
「………怒った?」
「別に。……おっさんなのはマジだしな」
「うわ! やっぱり怒ってる!」
「ウソ。怒ってねえって。……まっすぐ歩かねえと、濡れるぞ」
「うん………」
頷きながらも、その場に止まってしまった歩みに合わせ、彬水もそこにとどまる
雨粒の流れる向きを見極めさりげなく傘を傾けつつ、空いた手で愛良の背を撫でながら
「どうした?」
「……………あのね」
「うん?」
「新庄さんがしっかりしてるから
あたしはふわふわしていられるんだよ?」
「……………………」
どこまで見透かされているのだろう
こうやっていつも目の前の相手は
何も持たない自分でも、天まで駆け上がってしまえそうなことを
さらりと言う
甘えて護られて、或いは救われているのは
こちらの方だ
「わ! な、なに!?」
ひと気もまばらだとはいえ、まがりなりにも街中だというのに
無性に、その唇に触れたくなった
唐突に目の前に近づいてきた彬水の顔におののき、愛良は一瞬後じさる
「や……なんとなく……」
「なんとなく って……。新庄さん、ますますぬれちゃうよ」
「………いいよ」
「でも、───んっ」
次ごうとした言葉を吸い取るように唇を塞ぐ
腰を深くかがめてようやく届く、その距離が心地よく思えた
風に簡単に飛ばされてしまいそうなこの傘のように頼りない自分でも
ずっと一緒にいたい
例えそれが、単なる一方通行のエゴでしかないのだとしても
繋いだ手を離すことは
自分にはもう、できないのだから