ここ数日と同様に、お弁当だけ置いて帰ろうと思っていたのに
部屋の主は思いのほか早いうちから部屋に戻っていたらしく
階段を降りかけた蘭世の背中へ、ためらいがちに声を掛けた

促されるまま初めて足を踏み入れたその部屋は
建物の外観から想像していたよりも広いものに思えた
蘭世はなんだか落ち着かずに、そわそわきょろきょろとあたりを見回す

「なんか………ひ、広いね」
「何もねえからな。……あんまじろじろ見んなよ」

苦笑いしながらの台詞どおり、そこにあるのは
きっちりと角を合わせて畳まれ、隅に置かれた布団のみ
意外に几帳面なのかもしれない───ほのかに垣間見えた一面に、くすぐったいような気持ちになる

「………ところで、それ………」
「え? あ───……」

“それ”が指し示すのは、左目に当てられた白い眼帯
口に出してみて改めて、俊は昨夜の記憶を思い起こした
大活躍した弁当箱を拾い上げたその直後、確か彼女の顔面には

「昨日、神谷さんに蹴られたところが、ね
ちょっと……すごく……痕が残っちゃってて……」
「…………」

確かに、あの見事なキックをまともにくらえばそうだろう

「……大丈夫か?」
「うん……帰ってずっと冷やしてたから、痛みはないんだけどね。あ!」
「ん?」
「だ、だめ! ホントにすごいの。パンダみたいなの! だからっ……」
「いいって」
「全然よくない〜〜〜!! やあんっっ」

じりじりとにじり寄り、目元に伸ばした手から逃れようとするのを
がっちり捕まえ、眼帯を外す
本人が言うほどひどい有様ではないものの、うっすらと浮かんだ鈍い青は充分に痛々しく
思わず俊は指先でそこに触れた
───自分がその能力をなくしてから、だいぶ経っているというのに

“ただの人間”でしかない今の自分がさわってみたところで、何かが変わるはずもない
それくらいちゃんと理解しているのだ
実際、自分の痛みには無頓着極まりなく、寝りゃ治るくらいの勢いで過ごしている
なのに

「ナハハ───……。最近、傷とかの治りが遅いのよねっ
もう年かなあ、なんて………」

一方、蘭世はせいいっぱいおどけて笑う
傷を治すことができないのも、癒えるのが遅いのも
主たる原因は、そのひとつ
だからこそ、今この瞬間、沈黙に陥るのは嫌だった
けれど、はからずも抱きしめられる格好となっているのに気づいて
その目論見はむなしく失敗し、語尾が途切れてしまう

「……………」

跳ね上がった鼓動が、包み込む腕から伝わってくる
自分のそれがばれてしまわないように そんなことを願いながら俊は
瞼のあたりを漂わせていた指を、かちこちに固まってしまった肩に滑らせて支え
かわりに静かに唇を当てた
まるいラインをなぞるように点々と、注意深く触れ、離れて
薄い唇に辿りつく
無傷なそちらには何ら遠慮することなく、音がしそうなくらいに吸いつきつつ
力まかせに細い身を抱きしめた

失ったものも失わせてしまったものも、大きい
それなのに
こんなに満たされているのはなぜなのだろう
───なぜ、手放すことができるなどと思えたのか

「………ま、かべ、くん……」

あからさまに自分を求めるような動作は、慣れていない
それ故に、胸が苦しくなるほど震えて恥ずかしくて───けれど、嬉しかった

おぼろげだった幸せは
想い想われを実感できる、確かな幸せに変わった
そのひとつひとつの瞬間に、抱えきれないほどに膨らむ幸せは
微笑みとともに、大粒の涙をも押し出す

「………泣くな」

俊は小さな呼びかけに答えるかわりに、滲む目元に再び唇を寄せた