ようやく血が通ってきたかのように、ほんのりとあたたかくなった手を
ゆっくりと俊は胸元から離す
そして玄関のドアに歩み寄り、少し開けたその隙間から、腕だけを外にぐっと伸ばした

振り返ったその手に携えられているのは、先刻、蘭世が郵便受けに預けた
(まま、放ったらかしにされていた)お弁当
自分の手を、しばしぼうっと眺めていた蘭世は、それを認め、ようやく我に返る

「あ」
「……いつも、悪いな」
「う、ううんっ。つ、作るの楽しいの! すごく」
「そっか」

他でもない彼のためだから嬉しいというのは勿論だけれど
単純に、あれこれ悩んだりして作る行程そのものが楽しいというのも本当だ
めいっぱいそれを主張する台詞に、俊はふっと微笑んだ

「じ、じゃあ……。そろそろ、帰るね」
「え」
「え?」

いつも───お弁当を届けてそのまま帰る───なら、そろそろ家に帰り着いていてもおかしくない時間帯
なんの他意もなくそう言った蘭世の言葉に、俊は、梯子を外されたような反応をした
しかしそれはほんの一瞬のみ。ふと考えるような表情に変わったのち、俊は
先刻脱ぎ捨てたシャツを拾い上げながら言った

「送る」
「え!」

思わず上げてしまった大声に、何でそんな顔をするんだとでも言わんばかりの顔で俊は平然と返す

「え、って」
「だって……! い、いいよっ。一人で大丈夫! それに、お腹空いてるでしょ? それ、食べて……」
「……いつも、食えるのはもっと遅い時間だし……。それに」
「?」
「最近は、誰かさんのおかげで、一緒に帰ったりできなかったからな」
「ぐさっ」

お得意の皮肉めいた物言い。けれどそれは不思議と、蘭世の心を少しずつ確実に軽くする

「とりあえず、ちょっと待ってろ。着替えるから。……っと」
「?」

俊は、それ以上の返事を待たず、蘭世を玄関に残したまま、すたすたと部屋へと上がっていく
居間に足を踏み入れた瞬間、ふと何か思い出したかのように
胸元を腕で隠すポーズを取りながらこちらを振り返った

「……こっち、見んなよ」
「!! み……っっ、見ませんっっ」
「どうだかなあ」
「真壁くんっ! もうっっ」

じたばたしながら真っ赤になって否定する蘭世を、面白そうに眺め、ニッと笑いながら俊は
からからと引き戸を閉めた

「(───あ)」

好き勝手にからかっているかのようで、実は、気を遣ってくれているということなのだろう
いつもなら、ちょっぴり心苦しく思ってしまうかもしれないそんな彼の素振りが
今はとてもありがたく、心にしみいる

───来て良かった。お弁当を休むなど、早まった真似をしなくてよかった

「…………なにニヤニヤしてんだ。行くぞ」
「に……にやにやなんて、してないもんっっ」

猛烈な速さで着替えを終え、Tシャツとジーンズ姿で戻ってきた俊が
蘭世の顔を覗き込む
慌てて頬の肉をぐにぐにとひっぱり、緩みを戻す仕草に
吹き出しそうになるのを彼はようやくこらえた




そういえば、この時間帯にふたりでこの道を歩くのは、はじめてかもしれない
自然と自分の歩調に合わせてくれているのであろう、俊の左側を歩きながら
蘭世はふと思い至った

人間になってしまった、そして自分をも拒絶してしまった
今よりほんの少し前の彼
それでもなお、自分になにかできることはないだろうかと
思いついてからというもの、一日も欠かすことなくお弁当を届けた

見護ることができないからと、夜道を歩くことを極端なまでに気にして
それをやめさせようとする彼の主張との折衷案として
9時までに家に着くようにすること そう約束したから
たとえば、たまたま早く上がった彼とアパートの前で鉢合わせ
じゃあ送るか、なんて経緯に至るような偶然すらも、結果的に全く望めなくなり
一日も欠かすことなかったその道の往復は、いつも、ひとり

彼のことを思いながら歩くのも、それはそれで充分幸せなのだけれど
ふと隣に目をやったとき、彼がすぐそばにいてくれるこの喜びには、やっぱりかなわない
気がつくと、もう、じきに家の前
いつもよりとても短く感じられた道のりにびっくりしつつ、斜め上の位置にある肩のあたりを眺めながら
思わずふっと笑みがこぼれたその瞬間、彼はこちらに目を向けた

「どうした?」
「え! あ、ううん、なんでもないっ」
「…………変なヤツ」
「ふふ」
「………………」
「…………あ」

ぷるぷると首をふりごまかした蘭世の、空いている手を俊はそっととる
驚きのあまり、踏み出す一歩が止まってしまったその表情に目を向けず、そのかわり
つないだ手に込める力を強めた

「……話をむしかえしたいわけじゃねえんだけど」
「えっ…………」
「そういう……の、を、無理強いするつもりはねえから」
「………………」

控えめな三日月が照らすだけの、ほの暗い闇の中でも
彼の、日に焼けた浅黒い頬にさっと赤みが走るのが見て取れた

「…………うん!」

心からの答えを返しながら、蘭世はぎゅっと俊の手を握り返す
その全開の微笑みに、俊が、舌の根も乾かないうちから自分の言葉を後悔したことにまで
気づくことはできなかった