久しぶりに二人でおでかけの予定を立てていたのに、あいにくの雨
道端に路駐していた車は、充分に道幅を考え停めていたというのに
対向車に急かされたため、納得いかないながらも移動しようとし
滑りやすい階段を急いで駆け下りたとき事件は起こった

「…………真壁くんっっ!!」

───そして、舞台は暗転───






沸かしたてのお湯をひとすじ注ぎ、広がる香りとぷうっと膨らんだ豆を眺めながら
蘭世はひと月強前の会話を思い出していた

『記憶喪失……です……か……』
『ええ……』

暗い影を帯びた声で応える王后陛下
隣に控えたメヴィウスが言葉を受け取り、症状について、何か詳しい説明をされたような気がするが、頭が真っ白になりあまり覚えていない
ただはっきりと覚えているのは、記憶をなくす前の環境で過ごした方が記憶を呼び戻す一助になるかもしれないから世話をよろしくお願いしたい、と
本来であれば何をさしおいても自分の元に置いておきたいであろう心情を抑え、息子の身を自分に預けてくれたという、身に余るほどの信頼の念への感謝


「真壁くん♪ コーヒー淹れたんだ。一緒に飲もう♪」

湯気の立ち上るカップを二つと、お手製のクッキーを抱え、蘭世は俊の使う部屋の扉をノックする

何もかも忘れてしまった俊としては、なぜ、他人の家(今の俊にとっては)に世話にならなければならないのか、半ば納得できない部分もあったようだが
裏でうまく諭してくれたのであろう
はじめはぎこちなかった江藤家での生活にもすこしずつ心を開き始め
とくに鈴世とのやりとりは、記憶をなくす前───本当の兄弟のようなやりとり───に近づきつつあった



「……あ、サ…………ありがとう」

このひと月のあいだ蘭世に対してだけは、ちょっとだけよそよそしさが覗く態度のままだった
勿論それに気づかなくはないけれど

「ううん♪ おじゃましま〜すv」

今日に限らず蘭世はずっと、それまでと変わらない態度で在り続けた
にこにこと、屈託のない笑顔で

そして俊にしてみれば
蘭世のその態度が、自分を焦らせないよう気遣ってのものではないことくらい
心を読まなくても見て取れたから
そこから生じるのは、染み入るような感謝のような気持ちと、数々の疑問符

「クッキーもあるの。ちょっと自信アリな感じだから、食べてみて♪」
「ああ……」

促されるままにクッキーに手を伸ばしながら、無遠慮に触れてしまってよいものかどうか迷った挙句触れられずじまいだったそれを
俊は解き放していくことに決めた。いきおいよく口に放りこんだクッキーはほどよい甘さ

「……あのさ……」
「ん?」

小首を傾げて瞳をまっすぐに見返す蘭世
ミルクたっぷりのコーヒーをこくんと飲み込む

「……記憶をなくす前のおれは、あんたと、その……恋人同士だったって、あの日おふくろから聞いた……。まあ、だから今ここでお世話になってるんだろうけど」
「……あ、う、ん……そう……だね。恋人同士、とか言われちゃうとちょっと照れちゃうけど……」

ナハハ〜と笑いながらぱたぱた額を仰ぐ
自分たちの定義をあまり考えたことはなかったから、『恋人』という響きはとても華やかに響く

「……で、さ……」
「?」

「あんた、これでいいのか?
自分ではよく判んねえけど……記憶をなくす前のおれと今のおれとは、全然……とまでいかなくても、違うところ多いだろう?」

ぱちくり
漫画のひとコマのような視線を向けたあと

「……ふふ、そうかも」

あっさりと俊の言葉を肯定する蘭世

「“そうかも”って……。ていうか、なんで記憶が戻らないことを責めないんだ?」
「え? ……だって真壁くんを責めても仕方のないことでしょう?」

勿論蘭世の言い分の方が正論だと判ってはいるのだが
正論=本音であることのほうが少ないものではないのだろうか
ましてや今のような状況では

悪いと思いつつ心を読んでみても、言葉以上の思いは帰ってこない
そしてそのことがますます俊の心にある漠然とした不安を膨らませ、さらに言葉を続けてしまう

「それって裏を返せば、おれでなくたっていい……ってことにならねえ?」
「…………」

かちゃん
テーブルに置いたカップの音が、沈黙に包まれてしまった部屋に妙に響いて
刹那
蘭世はくすっと笑う

「……え」
「……あ、ごめんね。真壁くんの言ってることがおかしいとかじゃなくてね、その……
そうやって皮肉っぽい返し方するところは全然変わってないし、わたしにしてみればやっぱり、真壁くんは真壁くんのままなんだなぁって、改めて思っちゃって……」
「………………」

……記憶をなくす前のおれってどんなんだったんだ?
頭の片隅で妙に平和な疑問を新たに宿してみたりもするが

「違うのは、 わたしのことを忘れちゃったってこと。ただそれだけで」

その言葉に、瞬時に我に返る

「それだけって……おれのことを好きだってんなら、そこが一番重要なとこだろうよ」

そして一番の疑問も、そこなのだ
確かに誰かを責めても仕方のないこと
けれど
不安が生じて当たり前なのではないか?

「うーん……でもわたしは、“わたしのことを好きでいてくれる真壁くん”が好きなわけじゃないんだもの、仕方ないじゃない?」

にこ
やっぱり屈託のない笑顔を見せ
ちょっとだけ視線を強めて続ける

「わたしにとっては裏を返す必要もないことよ」
「…………」

俊は言葉を返すことができず、ただ黙り込んでしまう

「な〜んて。ちょっとカッコつけすぎちゃった。勿論、思い出してくれればそれに越したことはないっていうか……すっごく嬉しいけど♪」
「う…………」
「……あ、コーヒー冷めちゃったねっ。淹れなおしてくる♪」
「え、あ……」

その時俊は少しだけ、自分を包む空気の波が揺らいだような気がした
妙に急いで、顔をそらしたまま部屋を出ようとする後姿を思わず見やると
小刻みに震える肩の線

「……おい……?」
「あ……」

静かに手を沿えこちらを振り向かせると
頬をすうっと零れ落ちる涙

「…………!!」
「……ご、ごめんなさ……なんでも、ない……」

───もう、駄目だ
俊は蘭世の細い体を力いっぱい抱きしめた

「……なんでもなく、ないだろうよ……」
「…………っ」

本当は
全部思い出して欲しいの
名前を呼んでくれないとわたしが壊れちゃいそうなの
心の奥の、さらに裏に封じ込めて見ないようにしてきた想いを
改めて思い知らされても、やはり言葉にすることはできず
蘭世はただ涙を落とす
そして俊は、蘭世の背に回す腕に力を込める

「……こういうことを……」

ぴくり
返事はないが、蘭世の肩が俊の声に反応する

「こういうことを、今のおれが言っちまうのって、すげえ無責任だと思うから
あまり言いたくねえんだけど」
「…………」
「記憶をなくす前のおれが、あんたを選んだ理由が判る気がする」
「…………真壁くん……っっ」

腕の中で思わず顔を見上げる蘭世
顔はもう、涙でぐちゃぐちゃだ

目尻を優しく拭い去り、俊は蘭世の唇に唇を寄せた
はじめは恐る恐る、ほどなくして中まで踏み込んで
蘭世好みの、甘めのコーヒーの味と、柔らかく絡む舌の感触に
身も心もとろけてしまいそうな感覚

それはなぜかとても懐かしいもので
そしてだんだんと、久しぶりのものへと変わっていく

「…………あ」
「え?」

目蓋を伏せたそのすきまから
突然声をあげた俊の瞳を覗き込む蘭世

「…………なんでもねえ」

それには応えず、再びその艶やかな唇を啄み出す


嬉しい報告も大切だけれど
今はもう少しだけ、このまどろみにも似た感覚のなかを漂っていよう