できることなら曖昧なままいられればいいのに そう思っていた
とにかく安いところ 唯一にして最重要項目だけを提示した彼に
店員がぱらぱらと並べた書類の内容は、どれもこれも似たようなものだった
時期を外しているうえに、やけに急いで転居先を探す客。それだけでも十分に珍しく
好奇心をくすぐられるのだろう。しかも彼は未成年
先般の試合で負った傷がようやく癒え始めた顔を、いかにも怖いもの見たさといった感じに
ちらりちらりと眺める視線が、いい加減鬱陶しく感じられた
『“人間として”勝ってみせて』
あてつけの如くわざと強調した言葉に、涙しているのではないかと思っていた
けれど彼女はそれすらも飲み込んで、人間である自分の背中を後押しした
多分、その隣をずっと歩いてゆくことを前提で
けれど、それは
“本当の意味で”幸せにすることができないのなら、せめて
幸せを静かに祈りたい
それまで自分にそばにいろというのなら、そうしよう
はじめはそう思った。否、必死でそう思おうとした
けれど自分がここにいることは、ただそれだけで
彼女に振り向かせることを強要してしまう
同じ速度で歩くことができない自分という存在は、もう、彼女の足枷でしかないのだと
くすぶり続ける思念から逃れることはできなかった
自分以外の何もかもを捨てさせなければ成り立たないなんて
それは愛でも何でもない
ぐるぐると絡まる、認めたくはないけれど抗うこともできなかったもの それを運命と呼ぶのなら
堕ちるのは、自分だけで十分なのだ
なにも彼女までもが、二千年前の彼らと同じ道をたどる必要はない
たとえば、店員の説明もろくに聞かず判を押し、部屋を決めたつい先刻のように
もっと適当で、曖昧なままでいられたのなら
傷つけることも、或いは傷つくこともないのだろう
けれど、期間限定で済ますことができない程度には彼女のことが好きで
本当は、こんなにも彼女にとらわれていて
全てを断ち切ることでしか、光を見出せなくなってしまった
堪え切れなかった抱擁は、なにより正直な自分の気持ち
ずっとこうしていられたらいい
互いのためだけに生きてほしい、そばにいてほしい
───そんな自分を知っているからこそ、そばにはいられない
ふと気がつけば、彼の足は、この街で一番の高台に向かっていた
幼い頃、“夕焼けのおねえちゃん”とともに夕日を眺めた、お気に入りの場所だ
多少の発展はあったものの、この街は変わらない。彼女も変わらない。そして夕日も変わらない
変わってしまったのは自分だけだ。もしかしたら“戻った”と言うべきなのかもしれないけれど
「……くそ………」
変わらないはずの夕日が、やけに目にしみて
彼はしばらくその場に立ち尽くした