その神々しさに目を開くのを躊躇っているそのちょっとしたすきに、彼女の胸のうちでは何が沸き起こっていたのか
意を決しようやく開いた目に飛び込んできたのは、あさっての方向をぼうっと眺める、どんよりと悲哀に満ちた表情だった
そのくせなぜか、俊の頭部を撫でる手の動きはしっかり続いたままで
どうしたものかと、先刻までとはまた異なる意味において俊は言葉に詰まった
「………………」
「あっっ」
結局沈黙のままそちらを凝視してしまった俊の視線にすぐさま気付き、蘭世は手をぱっと払う
「お……起こしちゃった? ごめんね」
「いや……、もう昼メシの時間だしな」
などと、ふてぶてしく答えた主が実は、しばらく様子を伺っていただなんて、微塵も思ってはいないのだろう
心からすまなそうに謝る蘭世の言葉を、俊はやわらかくいなす
現実的にみても、そろそろ起きなければならない時間帯だから
たとえ本当に寝こけたままだったとしても、この時間に起きるきっかけを与えてくれたのはありがたい
それに、主題はそこではないのだ
「……けど、なんで、頭」
「………………っっ」
「うん?」
撫でられる心地よさだけで充分満足ではあるのだが、いかにして彼女がそうするに至ったのか、興味深かった
常識的に考えて、小さな子供ではなく同年代の男、ついでにいえば恋人の、寝ている頭を撫でるだなんて
そうそうありえる話ではないだろうと
「…………、い、いたいのいたいの、飛んでけ……って、感じ?」
「は?」
これまた意表をつく返しに、一瞬頭が真っ白になる
「別に、頭が痛くて寝てたわけじゃ……」
七割方の確率でこの時間帯に自分はここにいることを(且つ、その目的をも)知っている彼女に対し
あえて口にする必要もなさそうな話だが
とっさに浮かんだのは、こんなバカ正直な言葉のみだった
特に他意はなかったのだが、その表情は彼女の目に、かなり自身を訝しむものとして映ったらしい
彼女は、半ば目を泳がせながら、いそいそと弁当のナプキンをほどき始めた
「う……、そ、そんなことより、ごはんにしよ? ねっ」
「…………。ああ」
しつこく問いただしたいのは山々だが、いじめたいわけではない
それに、単純に腹も減ってきた
俊は彼女の勧めに従い、しっかり持参しておいた弁当に手を伸ばした
「あっ、今日の卵焼きはね、う巻きなの。真壁くん、うなぎ好きだよね」
「ああ」
もうひとつの懸念は、たちまち消え失せたらしい。すなわち、目を開いた瞬間のうかない表情
例のごとく、まずは卵焼きへと箸をつけたところで、いつもどおりの明るい声が響いた
こちらの反応を期待するのと、ほんのちょっぴりの不安と。目を見開きじっとこちらを見つめる視線に苦笑しつつ
俊はう巻きを口に放り込む
「…………うまい」
「……! あ、ありがとうっ。わたしも食べよっっ」
言いたいこと、言わなくてもよさそうなこと、時に、言うべきことまでも言いよどんでしまう俊の癖は
以前よりは幾分マシになってきたものの、まだまだ健在だった
だからこそ、今この瞬間のような、口をつぐむ間もなくするりと滑り落ちる言葉の効果は絶大で
蘭世はまさに溢れんばかりの微笑みを浮かべてしまうのだった
そして俊は俊で、毎度毎度その微笑みにノックアウトされてしまうという好循環を踏むことになる
そんな、いつもどおりの流れ。だと思うのだが
実は自分以上に「負」の部分を見せない彼女の先刻の表情が、やはり気にかかった
自分の与り知らぬところで(実際は盗み見ていたのだが)あんな表情をされてしまっているのは、キツイ
「あ───、おいしいっっ。自分で言うなってハナシだけどね、エヘヘ」
「…………まあ」
「え?」
「別に、無理矢理聞き出そうとは思わんけど……なんか悩んでるんだったら、あんま、悩み過ぎるなよ」
「………………」
言ってしまってから、自分の語彙の少なさに俊は呆れ果てた。言外にその理由を求めているあたりがいやらしい
気になっていること、できることなら力になりたいと思っているということを、最初から素直に口にしておけば
互いに気持ちよくことが進むはずなのに、どうしてこうも気が回らないというか何と言うか
そもそも自分のことは棚上げの、ひどく勝手な理屈だ。やめておけばよかった、とは思えないけれど
どうもスマートにいけない自分が嫌になる
心なしか痛みすら覚えはじめたこめかみを押さえながら、かろうじて俊は
なけなしの平常心を前面に押し出した姿勢を保つ
“いたいのいたいの……”をしてもらうなら、むしろ今だろう
蘭世は蘭世で、数秒ほどもじもじと悩むそぶりを見せたのち、箸をそろえておもむろに口を開いた
「……真壁くんは、すごいね」
「は?」
「ボクシングやって、身体も鍛えて、夜遅くまでバイトして、学校にもちゃんと顔出して」
「…………。そう、か……?」
全般的な意味合いもさることながら、前二者に比べ、後者に対するコメントが明らかに弱いのは、気のせいだろうか
……実際その程度の力配分なのだから、仕方ないのだが
「すごいよ。……それにひきかえ、わたしは……すごい、からっぽなの」
「空っぽ?」
「そう。ちゃんとした夢も目標もないし……ただ、日々のんきに生きてるだけっていうか」
「暢気、ねえ……」
「うん……。卒業まではまだもうちょっと時間があるけど、いつまでもこのままじゃいられないわけだし
いろいろ……“いろいろ”としか言えないのがアレなんだけど、わたしも考えなきゃなあって」
「ああ…………」
「でも、なにをどう考えればいいのかすら、判らないっていうか……
そこまで言って、彼女はふうとため息をついた
いわゆる『進路』のことか。意外といえば意外な理由に、俊は密かに舌を巻いていた
『いつまでもこのままじゃいられない』 状況も心境もまるで違えど、似たような言葉をかつて自分も
彼女に放り投げたことがある
まさに当時の自分こそ“空っぽ”状態で、後先などまったく考えられなかった
今でこそ結果オーライと言えるものの、その時点での目的を思えばツメが甘い
彼女の目の前から完全に姿を消すことも可能だったのにそれをせず、結果的に(当時の段階では)最悪な決断を強い
一時的にとはいえ彼女を危険な状態にさらすことになった
彼女の賞賛するところの自分は、結局のところそんな重大な場面においてすらも
少なからず行き当たりばったりなのだ。“すごい”かどうかでいえば彼女のほうがはるかにすごい。多方面において
───なのに
「ボクシングは……、おれにはそれしかなかったってだけだ」
「え?」
彼女は目を見開き、俯き加減だった顔を持ち上げた
「いや、勿論他のスポーツよりかは好きだったし、やりたかったってのが先行だけどな。ただ、おれの場合
ヤラシイ話、実益も欲しかったし……。早くひとり立ちするのにいちばんてっとり早かったっつう部分も
ほんの少し……あって」
「あ…………」
「改めて言うのも何なんだが、バカだったしな……。もしかしたら、ガキのころマジメにお勉強しておけば
選ぶ道も違ったかもしれねえ」
「ええっ」
“ガキのころマジメにお勉強しておいた”彼も、ボクシングをしていない彼も、どちらも同じくらい想像できない
そもそも、ボクシングというスポーツ自体、俊によって知った蘭世からしてみれば
ボクシングと俊とは、切っても切り離せないものであった
二重の意味でますます真ん丸になった目で、蘭世は俊をまじまじと見つめる
「だから……別におれはそんなご立派なわけじゃねえんだよ」
「そんなこと……! だ、だって現に今は、いろんなことをちゃんとしてて……」
「身体鍛えんのは、ボクシングとセットのことだし、バイトは、しなけりゃ飯が食えなくなるってだけの話
とかなんとかいいつつ、今みてえにしっかり世話になってるし、学校も……いろいろお目こぼししてもらってるしな……」
この時間帯の習慣である、居眠りも含めて、だ
「でも……」
「デモもストもねえって。……単におれは、ガキのころの狭っちい選択肢のなかから選んだものを
ずっと続けてるだけなんだよ。別にえらくもなんともねえ」
「…………」
「それに…………」
「え?」
「………………」
今度は俊のほうが口をつぐむ番だった
結局のところ、今の自分が何のためにそうしているのか・そうしていられるのか。答えはとてもシンプルだ
生まれもって与えられていたもの だけではなく、自分の手で掴んだもの。たとえひとつでもそれを持つことで
彼女の笑顔につりあうほどの存在になりたいと思うだけ
理屈ではない。ただそう思うだけで、力が湧いてくるのだ
「……。おまえのほうが、すごい」
「…………そんな……」
う巻きをひとつと、黒ごまのふられたご飯をふた口食べ止まってしまった弁当箱へ、俊は視線を落としてしまったので
彼女の表情は判らなかった
ぶっちゃけた話、近い未来であろうと遠い将来であろうと、そんな笑顔をたたえた彼女が自分のそばにいてさえくれれば
言い方は悪いが、なんでもいいのだ。それくらい彼女は、俊の近い未来・遠い将来においてなくてはならない存在だから
たとえ彼女がどうなっても、どうもならなくても、それだけは唯一確かなこと
そう言葉にすれば彼女は多少なりとも喜んでくれるだろうし、彼女もそう望んでくれていると思いたい
けれど今この時点においては、彼女の望む答えはそこではない。それくらいは、判る
だから、こんなことしか言えないのだ
「いずれにしても、焦ってもしょうがねえだろう。ゆっくり考えろ。時間はまだある。いざとなったら」
「…………。……いざとなったら?」
「時間、止めちまえ」
「ぶっっ」
「あ、おれの動きまで止められると、身体がなまっちまうから、やるならおれの立会いのもとでやれよ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっ」
神妙な面持ちになり飲み込んだ息を、即座に蘭世は吹き出した
日頃、こんな(魔力を濫用するような)ことを冗談にも言わない分、ツボにはまったらしい
ひとしきり笑ったのち、涙目になった目元を拭いながら形勢を立て直しつつ
それでもしばらく肩がぴくぴくと震え続けていた
「……飯、食っていいか」
「へ!? あ、う、うん……どうぞっ」
「んじゃ、改めて……」
と、う巻きの次に目を引きつけられていた唐揚げに俊は手を伸ばす。ぴりりと効いたスパイスの風味が絶妙で
これまた俊の大好物だった(といっても、彼女の料理のうち好物ではないものを探すほうが難しいのだが)
文字通り、噛みしめるように咀嚼する俊の顔を、ようやく落ち着いたらしい蘭世はじっと見た
「…………なに」
「ん? ううん……。お味は、いかが?」
「……うまい」
「エヘヘ」
次いで蘭世も同様に、唐揚げをつまんだ。自己採点でも満点のようで、にっこりと微笑みながら飲み下す
もうひと口、今度はご飯に箸をつけようとして、やめて。再び蘭世は俊の顔を見た
「……なに」
「うん……。不思議だなあ、って」
「は?」
うっとりとこちらを見つめながらのその言葉に、俊も箸を止める。ふたつめのう巻きを飲み下すのを待ち
蘭世はゆっくりと言葉を続けた
「さっきまで、ね。ホントはすごーく不安だったの。だけど、真壁くんと話してたら
嘘みたいにその不安が消えちゃって、がんばろうって気持ちになれて」
「………………」
「やっぱり真壁くんは、すごいね」
「…………っっ。だから、そんなことねえって」
俊が蘭世の顔を見ることなくご飯をかっこむことになったのは、それがおいしいから、或いは腹が減っていたから“だけ”ではない
End