晴れの日も雨の日も 01(39)

39.真壁くんの部屋を出ようとすると、「雨が降ってきたからもう少しここにいたら」とやんわり腕を掴まれた蘭世さん。腕の内側の柔らかい皮膚を親指でなぞられ、心臓が跳ねる



「じゃ、じゃあそうさせてもらおうかなっ。実は今日、傘、忘れちゃったの」

咄嗟にそんな嘘が口をついて出た。とりすました顔で繕ったつもりだけれど、うまくできたかはわからない



「大気の状態が不安定なため、夕方からは雷を伴う激しい雨が断続的に降るでしょう」そんな、朝のニュースで流れていた天気予報を参考にするまでもなく、蘭世は、折りたたみ傘を常に鞄に入れている
とはいえ。本当に傘を持っていなかったとしても、家主の意向により荷物の極端に少ないこの部屋にだって、予備の傘くらいはある。仮に、それでも蘭世が帰ると言えば、快くそれを貸してくれるだろうし、何なら、(こちらの世界で過ごしている以上、自分たちの能力を濫用しないという彼のポリシーに反するとはいえ)瞬間移動で家へ送り届けてくれることも辞さないだろう。それでも

「……まあ、雷も来そうだし」

俊は明日からしばらくジムの遠征が続くという。そのための荷物等の準備は済んだと聞いており、もう少し・あと少しを繰り返してこの時間まで過ごしてしまったけれど、諸々を踏まえればそろそろ御暇すべき頃合いなのだ。なのにそんな気遣いはすっかり忘れたふりをして、蘭世は一度浮かせた腰を下ろした。並んで座る俊の指先は、掴んでいた腕をゆっくり滑り降りて、蘭世の指を絡め取り、胡座をかいた膝頭に着地する。ごつごつと骨張っていて固い、そしてあったかい。自分のそれとは何もかも異なる感触に、蘭世は身じろぎする

玄関口だけではなく、ある意味密室でもあるこの部屋にまで足を踏み入れることが許された(別に禁じられていたわけではないが、なんとなく、気持ちの問題として『許された』)のは、つい先日、誕生日のどさくさにまぎれてのこと
今になって思えば、その記念すべき1日めからお泊り前提でやってくるなんて、つくづく大胆なことをしたものだ
そして冷静な理性を取り戻してしまった現状、「真壁くんの部屋でゆっくり過ごしたい」というフレーズは、言外に潜む意味が変わってしまったような気がしている。意識しすぎと言われればそれまでだけれど、実際、この部屋ではなく蘭世の家で会うことを提案するほうが多い。いつもそれに特段異を唱えることもなく、今は今で、絡ませた指をそ知らぬ顔で手慰みのようにふにふに遊ばせている俊が、なにかを意識しているのかいないのかはまったく読み取れない。鉄壁のポーカーフェイスがいまはやたらと憎らしい。永遠の約束を取り交わそうとなんだろうと、こうして悶々としてしまうのはやっぱり自分だけなのか───

───と、そのとき、蘭世の心境を映したかのようにぐずぐずしていた空を、光が一閃した

「ひえっ」

噂をすればなんとやら。稲光にさして間を置かず、雷鳴が轟く。ぐちゃぐちゃ考え込みながら、雨空からは完全に視線を外してしまっていたので、なかなかの不意打ちとなり、蘭世は飛び上がらんばかりの勢いで俊にしがみつく
その突撃をいともたやすく受け止め、俊は、苦笑しつつ、幼子をあやすように蘭世の背をやさしくさすった

「『ひえっ』て……もうちょっとなんて言うか……。色気も素っ気もねえな」
「うえ~~~、だって……! あ、また!」

言い訳をする暇もなく、再び稲光が走った
雨が容赦なく窓を打ちつけ、轟音が部屋を揺さぶる。この、エネルギーの塊のような音が駄目なのだ。腰が引けてしまい、腹に力が入らなくなる。故に、色気だのなんだのをうっちゃらかした、間の抜けた悲鳴しか出てこなくなってしまう

それでも、からかう口調とは裏腹にやさしく引き寄せられた俊の胸に顔を押しつけたまま、さらに、光と音を遮るようにすっぽりと腕で包まれていると、少しずつ心の粟立ちがおさまっていく。怖いのは怖いけど、『ここ』なら大丈夫
そこはずっと前から、他のどこよりも安心できる場所だった。『もう少し』ではなく、できればもっとずっとそばにいたい。晴れの日も雨の日も、朝も昼も夜も、ずっと。───帰りたくない。『もう少し』『ここにいる』だけでよかったはずなのに





雷鳴はいつの間にか落ち着いたようで、窓を叩く雨音も細やかなものとなっていた。さすがにタイムリミットというところだろう。かわりにこちらが大泣きしたいくらいだ。若干ブレてしまったものの良き彼女像を貫いたまま帰ろうか、それともここはやはり本音をぶつけてしまうべきか、決めかねたままぎゅうっと目を瞑ったところ、頭上でひとつ咳払いしたのちに俊がぼそぼそ呟くのが聞こえてきた

「……明日、急ぎの用事がないんなら、もう今日はここにいれば」
「!?」

あまりといえばあまりのタイミングに顔を上げかけたところで、蘭世の頭頂部に載せていた顎と、背に回していた腕にぐっと力が籠った。文字通りの力技だが、動くな、もしくは顔を見るな ということらしい

「ま、真壁くん……それは、どういう」
「どういう っていうか……。まあ、『いたら』とか『いれば』は卑怯だな。正直、反応を探りたかった」
「探るって……ぁ」

と、包まれている腕の力がふっと緩んだのが分かった。指先が蘭世の髪を耳にかけ、梳るように降りていく。露になった耳朶を唇だけで噛まれ、かかる吐息がくすぐったくて、熱い。熱いのに、ぞくぞくと寒気にも似た感覚が背筋に走る。その感覚の正体は、すこし前、俊に教えてもらったばかりだった

「……さっきまでは、ちゃんと送り届けるつもりだったんだけど。さわっちまうと、駄目だな。それだけじゃ足りなくなってくる」
「…………」
「……足りない」

俊は唇で蘭世の首筋を辿っていったん離れ、そっと掴んだ肩に額を預けた。そして何かに降伏するかのようにため息をつく。そのまま黙りこくってしまった俊の背に、蘭世はそっと腕を回した。つい先刻まで自分がしてもらっていたような、すべてのものから護ってくれそうな抱擁は到底できないけれど

「あ、あのね、真壁くん……わたし、本当は、傘……」
「…………」
「もしかして……読んで、た?」
「いや……」

本音に抗えずついた嘘を嘘だと告げて、俊の言葉に返すかたちで心を読んだのかを問うたなら、それはすなわち答えになる。ずっと、もっとそばに。そう思っているのはあなただけではないのだと
ため息ではなくほっと軽く息をついて、俊は顔を上げた。きっと赤く染まっているであろう頬を親指の腹で辿られ、蘭世はさらに体温が上がったような気がした

「じゃあ、引き留めてほしそうな顔してた……?」
「いや全然。もうちょっとそういう顔してくれてたほうが、こっちとしてはありがたいんだけど」
「ええ……」
「……まあ、妙に艶っぽくなられても、それはそれで困るか……」
「どんな顔してればいいの……」

確かに と俊は吹き出した。しばらくふたりで笑ったあと、どちらからともなく唇を重ねる。そのあいだには空気すら入り込めないほどに、互いの身体を摺り寄せながら

とけ合う吐息を包み込み、闇に紛れさせる夜雨の音。それは永遠に続くかのように、ときに激しく、ときに穏やかに、窓に弾けて消えていく