ブラウン管の中で歌い踊る彼女は、果たして本当に
彼女なのだろうかと考えさせられることがある
自分の前で微笑むあの姿は、本当は
彼女が演じる、役どころのひとつでしかないのではないかと
──────彼女は、誰のものなのかと
「38度3分、ねえ………」
ちょっと寒気がする。そう気づいた頃にはすでに遅かったのだろう
目が覚めたら起き上がることすらできず、何年ぶりかで体温計を脇にさし、3分待機
文字通り、健康優良児。36度5分の平熱を常にキープしてきた彼にとって
その数値は、もはや異次元のものだった
……見るんじゃ、なかった。なんの罪もない体温計を放り投げ、布団を被りなおす
とはいえ、ずっと死んだように眠り続けた身としては、再び眠ることなどそうそう簡単にできるはずもなく
なんとなく点けたテレビ───番組は、この時間帯だと面白いものはやっていないから
ビデオデッキに電源を入れ、挿れっぱなしのテープを回す
学生の頃から、何度繰り返し観たかわからないそれは
売れっ子アイドル・安西二葉の、プロモーションビデオコレクション
本人に頼めば、もっと大量に手に入れることができたかもしれないけれど
自分の彼女の出演するビデオを大事に抱えているだなんて
そこはかとなく怪しげな雰囲気が漂う(気がする)ので言えずじまいで、全て自分で集めたもの
その存在は、本人にはバレていないと思いたい
あらゆる賞という賞を総ナメにしたというのはダテじゃなく
贔屓目を差し引いても、彼女の歌は巧いと思う
アップテンポな曲も、しっとりとしたバラードも、歌わされている感もなく自然に歌い上げる
女優に転身・専念すると聞いたとき、もちろん反対することはなかった(できなかった)けれど
“中途半端に両立するのは嫌だから”そんな言葉のもと、この歌声を封印されてしまったのはやはり哀しかった
そして、この数ヶ月
彼は彼女の姿を、目の前のブラウン管の中でしか目にしていない
今日は主役に抜擢された、なんとかというドラマの収録
そう伝えてきたメールへの返信に、ただひとこと“風邪ひいて寝てる”とだけ書き送りつけたメール
それへの返信は、未だにない
「カノジョって……なんだぁ?」
女優かリポーターかの違いはあれど、お互い仕事を持つ身なのだから
日常、すれ違いの日々が続くことは、ある程度仕方のないことだと思うのだけれど
それでもたまに、公私ともに追いかけているのは自分の方だけだと思わされるのはこういうときだ
自分たちは本当に、つきあっていると言えるのだろうかと
──────けれど
初めて異性とつきあったその相手が、自分がそれ以前から熱狂的なファンとして追いかけていたアイドルというのは
彼にとって、幸だったのか不幸だったのか
ひとりじめしたい そんなシンプルな願望が胸に渦巻くその片隅で
アイドルとして・女優としての彼女のことも愛してやまない自分が確かに存在するのだ
「………ていうかむしろ、おれが、なんなんだ………」
アイドル継続でもなく女優転身でもなく、もうひとつの道を示すことだってできたのだ
こんなときぐらいはそばにいて欲しいとか、都合のいい御託をぐだぐだ並べるくらいなら
だいたい風邪をひいたのだって、原因は彼女にはまったく関係なく、勝手にひいただけなのだから
今この時点での彼女のことをとやかく言うのは、筋違い以外の何物でもない
ましてや、自分はもしかしたら彼女にとっていらない存在なのでは なんて
愚問かつ責任転嫁の極致であることも、頭ではちゃんと解っている、のに
「仕事とアタシ、どっちが大事なの? ってね……」
ふらふらと立ち上がり、キッチンへと向かう
小ぶりの冷蔵庫を空け、水をボトルのままラッパ飲み。喉から胃へと冷たさがすうっと落ちるのが心地よい
喉を鳴らして一気に飲み切りふと覗き込むと、どうやらその中身は、今手にしているボトルが全てだったらしい
とりあえず何かしら食べておかないと、違う理由でヤバイかもしれない───そう思った瞬間に
部屋のチャイムが豪快に鳴り響いた。……が早いか、返事を待つのももどかしいとばかりに勢いよくドアが開く
「入るわよっっ! ……って、なにそんなカッコでうろうろしてんのよ!?」
「う、え! 二葉!? な、なんで……」
「なんでって、幸太が風邪ひいたとか言ったからでしょう!? ちょ───う走ったわよ!」
───―確かに、荒い息と額に浮かぶ汗は、いかに“ちょ───う走った”のかを物語る
サングラスを掛けているとはいえ、髪を振り乱し、コンビニの袋を両手に提げた今の姿を見て
これがあの安西二葉なのだと気づく者は、そうそういないだろう
「どうせマトモなもの食べてないんでしょっ。食材揃ってるのなんて見たことないし!
ていうかこんな涼しいところにいたら治るものも治んないわよ! 早くベッドに戻って! ほら!!」
「う、わああああああ、ちょっと待っ……っっ!!」
部屋へと幸太を押しやりつつ、二葉自身も入ってこようとするのをすり抜けて猛ダッシュし
テープが回りっぱなしのビデオデッキの電源をぶち切る
高熱でただでさえ足元のおぼつかないところに、余ったイキオイを支えきれずつんのめり
幸太はリモコンを握ったままベッドに倒れ込んだ
「………………
えっちなビデオでも、観てたの?」
「バッ………! んなわけあるかっっ」
「ふ〜〜〜〜〜〜ん………?」
あからさまに疑わしげな視線を投げてよこしながら、二葉はじりじりとベッドへと詰め寄る
にやっといたずらっぽく笑ったのと、細く軽いとはいえその全体重をかけ腕を押さえ込まれたのと、どちらが早かったか
おしあいへしあいその間に紛れて手のうちからリモコンを奪われ、静止する間もなくぽちりと電源オン
流れてきたのは
「あ……………」
「……っうわあああああああああ!!」
──────南無三
ひらひらの衣装を身にまとい歌い踊る声を背に聴きながら、幸太は両手で頭を抱え込んだ
そのままの姿勢で過ごすこと、一、二、───十秒。これといって何の反応も示してこないその相手を振り返ると
なぜかじいっと食い入るようにテレビの画面を見つめていた
「…………」
「……二葉………。ひ、ひいた………?」
「ううん、全然? ………懐かしいわね」
恐る恐る尋ねた幸太の言葉をさらりとかわし、二葉はキッチンへと向かう
「味は期待しないでね。できあいのものを、ちょちょっと組み合わせるだけだから」
「う、うん…………」
…………“引く”どころか、これは、“ドン引き”ってやつなのでは…………
幸太は、熱のせいではない嫌な汗が一筋、たらりと流れるのを感じた
どうにか気力をふりしぼり、そろりとキッチンのほうを覗くと
一人部屋用のいかにも小さなシンク相手にこまごまと動く姿があり
相変わらず流しっぱなしのテレビの中で歌われている曲に紛れ、聴こえてきたのは
「………………」
テレビのボリュームをゆっくりと落とす
次第にはっきりと耳に届いてくるその歌は、かつて彼女自身がいちばん好きだといっていた曲
5年前の曲だから、歌詞も音程も、かなり当時の勢いに任せたものなのだけれど
少しトーンを下げて囀るように歌われるそれは、“可愛い”だけではなくなった今の彼女の魅力とあいまって
また違う輝きを備えているように思えた
「二葉───」
「………ん──────?」
目を離すのも惜しいというように、ことことと音を立て始めた小鍋を
お玉(部屋の主は日頃全く使わないのでどこにあったのかは不明)でかきまぜながら、二葉は応える
「や、その…………。おまえ、ホントにもう歌は歌わねえの?」
「え? う───ん……まあ、ねえ……今は演技に専念したいし
それにスタッフも総入れ替えになっちゃったから……」
あのときと何ら変わらない返事。むしろその意思が更に強く込められたような気がする
けれどどうしても言ってみたかった
「や、新しい曲とかじゃなくても……セルフカバー? リメイク、かな
その……昔の曲を録り直してみる、とか………」
「…………」
ぱちくり
コンロの火を止め、二葉は感心したような顔をしてこちらを振り返る
「さすがファンクラブ会員番号ひとケタの幸太くん、名プロデュースね」
「ぶっっ! そんなことまで知ってんのかよ!」
「ふふ。……調べた」
「へ?」
なんだか聞き捨てならない台詞を言われたような気がする
それを問いただすまもなく繰り出された彼女の笑顔は、多分今まで見たうちでも極上のもの
「出さないわ
………いまの安西二葉の歌を聴くのはひとりで十分でしょ」
「…………」
ぐるぐると悩んでいたことを、すべて簡単に吹き飛ばすほどの威力は
アイドルでもなく女優でもなく、ただの彼女が持つものなのだと
幸太は今、改めて思い知った