「う───ん、キレイねえっっ」
窓の外を眺めながらワイングラスを握りしめ、蘭世は思わず感嘆の声を漏らす
向かい合わせで座った俊も、同じ方向を見やった
人波に揉まれながら見てきた昼間の桜も、十分美しかったけれど
こうして日の落ちたいま眺める桜も、闇のなか、また違った趣をたたえている
俊の部屋の近くにある小学校の校庭に植えられた、数本の桜の木
窓際に座ると、遠目ながらにそれが見えることに気づいたのは、部屋の主ではなく彼女のほうだった
今日のアルバイトは、久しぶりの完全オフ
必然的に夜も一緒にいることができる今夜、ふたりで夜桜を見よう───そんな約束のもと
特に彼女は何も言わなかったけれど、なんだかひとりで先に見てしまうのは惜しくて
夜にその窓辺に立つことを避けていたから、俊自身、その光景を見るのははじめてのこと
常時灯されたライトの光に照らされ、桜の花々がぼんやりとそのシルエットを浮かび上げていて
柄にもなく俊も、窓の外の様相に魅せられてしまった
安い・狭い・ボロい の三点セットだけが取柄(?)のこの部屋も、なかなかやるものだと感心しながら
捨てるものなどもう何もない
そう思っていたあの時の自分と同じ空っぽの部屋に価値を付加してくれたのはいつも
目の前に座り、無邪気な笑みを浮かべながら外を食い入るように見ている彼女のように思う
フローリングなんておしゃれなものではなく、畳敷きなのだから、別にそのまま座っても問題ない
そう思っていた自分の尻にはいま座布団が敷かれ
飲めれば形なんてどうでもいいとばかりに、適当に買ってきたコップしかなかった台所には
小ぶりながらも棚がしつらえられ、用途に応じたカップやグラス、大小の皿が並ぶ
──────眠るためだけの空間が、もっとも安らげる場所になった
いまお互いの手のうちにあるワイングラスも、彼女のセレクト
あまりワインが得意ではない俊も、なぜかこのグラスでならおいしくいただけるような気がする
勿論、それを使うときはいつもそばに彼女がいるという、揺るぎない前提があるからに違いないのだが
「………………」
中途半端に残っていたワインを飲み干し、桜に見入る彼女に見入る
とっくに空いていたもう一方のグラスに、もう一杯を勧めるべきか否かほんの少し考えて
彼女の手から静かにそれを取り、後ろ手で卓袱台に置く
ありがとうと言いかけた唇を指先でなぞり、ずるずると引きずるように身を寄せ
もたれかかるように彼女を抱きしめた
さらりと垂れる長い髪をかきわけ、首筋に唇を寄せる
細い肩が一瞬ぴくりとふるえたのち、籠もった力がすうっと抜ける
表情を直接見ることはなくとも、微笑んでいるのがなんとなくわかった
そのまま深く深く息を吸い込む
──────胸の奥、じんわりと力が染み透る
時に、つややかに咲き誇る花のように
時に、乾いた地をやさしく潤す春の雨のように
彼女は俊のすべてを満たす
彼を包み込むかのようにあふれている、なにか
それは、心を読んだりしなくても、苦手な言葉を連ねたりしなくとも
常にそこに感じ取ることができるから
やわらかく心地よい沈黙のなか、ふたりはただじっとそのままでいた
薄紅の桜は、静かにその姿を闇に揺らす