その後ほどなくして、部室へとやってきた彼女の様子は
昨日とも、もちろん今日の昼とも、なんら変わったところは見受けられず
待っていた俊に、“ありがとう”と“おつかれさま”を言いながら、ぱっと微笑んだ

並んで歩き始めてからもそれは変わらず、他愛もない話はするものの
昼間耳にしたような状況が話題に上る気配は、まったくもって感じられず
業を煮やして俊は、それでも極力遠まわしを心がけ、それを切り出した

「なんか……変わったこととか、なかったか」
「え! なあに?  突然……」
「いや、その……。なんとなく」
「??  そうねえ、変わったこと、かあ……う───ん、なんだろう……。あっ」
「………………」

思わず俊は息を止めてしまう。なにもそんな、びくつく必要などないはずなのに
なぜか、異常なまでに気がはやっていた
けれど返ってきたのは、やはりというかなんと言うかの、肩すかし

「そうそう。今日ね、数学の小テストのヤマを教えてもらっちゃった
真壁くんのクラスもそろそろだと思うから、メモして……あとでお弁当と一緒に持ってくね」
「え?  あ、ああ……、サンキュ……」

それはそれで、お寒い成績を誇る自分(そして、一応触れないようにしているものの、多分彼女も同様)にとっては
かなりありがたい情報ではあるのだが
今、聞きたいのはそんなことではないのだ

「……他には?」
「え───……。なんだろうっ。今日もいちにち平和だったんだ、けど……」
「…………。おまえに……」
「え?」
「おまえに告白した奴が……いるって」
「……あ」

一瞬、彼女の目が泳ぐのが見て取れた

「もしかして……もしかしなくても、日野くんから……よねっ。同じクラスだって言ってたし」
「………………」

口元を押さえながら、蘭世はうつむく
そして、困ったような表情になった顔を上げ、俊の顔をまっすぐに見つめながら続ける

「うん……昨日、告白……されたの。で、今日きちんとお断わりして……
ごめんなさい。せっかく一緒に帰ってるのに、真っ先にこんな話題はやだなって思って……
先延ばししようとしてましたっ」

俊の問いたかった部分を明確に示し、蘭世はぺこりと頭を下げた
そして、残っている棘は、もうふたつ

「……昨日は、なんで言わなかったんだ」
「え? ああ…………。だって、相談する必要は、ないでしょう?」

あっさりと言い放たれたその言葉に、俊は、がつんと後ろから頭を殴られたような衝撃を受けた





だいたい、なぜ目の前の彼女は、今までの自分の認識を根本から覆すようなことを
こんな、心から晴れ渡ったような笑顔を浮かべながら口にすることができるのだ

それとも、彼女のいうところの“つきあっているわけではない”という言葉は
裏も表もなく言葉どおりの意味で
裏に奥に、深いものがあるのだと思っていたのは自分だけということなのか───





「……悪かったな」

固く凍りついたような喉から、俊はようやく声を絞り出す

「え?」
「差し出がましい口をきいて、悪かった。確かに、おれに相談することじゃ……ねえのかもな」
「えっ…………。……ああっ!」

何やら傷ついたような表情と、低く震えた声の調子とで、瞬時にして蘭世は
自分の言葉が彼に与えた、ひん曲がった解釈に思い至る

「ま、真壁くんっ、待って! 違う、違うのよっっ。そうじゃなくて!」
「…………江藤……、もう……」
「やだっっ! 聞いて!! そんな、変な意味じゃなくて
わたしはもう迷ったりしないからってことを言いたかったのっっ」
「え…………」

もう、いいから
そんな、こういう状況に言うべきなのかもしれない・けれど決して
言い切ることなどできそうにない台詞を浮かべた唇だけでなく
俊の動き・思考すべてが、彼女の言葉でぴたりと止まる



心の置き場所がそこなのだと確固たる自信を持つことができず
他者からの思慕を、どうしようと尋ねるしかできなかった、あの頃とは違うのだ
もちろんそれは、彼女だけではなく、自分も

こんな簡単なことすら忘れてしまいそうになるほど、すっぽりと自分を包んだ霞は
彼女の言葉ひとつで、いとも簡単にはじけて消える



「真壁くんに相談して……助けてもらうんじゃなくて、自分の力できちんと解決して……
それから“報告”したかったの」
「報告…………」
「うん。……でも、結局、伝わっちゃってたのよね。ごめんなさい……」
「……いいけど……」
「………………」

と、蘭世は、なにかを言いよどみ、意味ありげな視線でちらちらとこちらを眺めた

「…………なんだよ」
「……うん……。ちょっとは、焦ってくれたり……したかな、なんて……」
「…………莫迦」
「エヘヘ。……あ、待ってよう、真壁くんっっ」

すたすたと早足で歩き出した俊を、蘭世は、くすぐったいような微笑みとともに追いかける
小走りで、再びとなりに並んだ蘭世の顔を見ることなく、俊は口を開いた

「……これからは、そういうことも、言えよな。ややこしいことになっちまっても困るし」
「はあいっっ。……でもね、だいじょうぶよ。そのときはかみついて逃げちゃうから」

にぱっと笑い彼女は、自分の能力の証でもあるちいさな牙をちらりと覗かせる

まあ確かに、十分に逃げるだけの隙は作ることができるかもしれないけれど
それでも と、俊は、彼女がその能力を発揮したシーンを思い起こし
同時に、両手を挙げての同意はしかねることに気づく

「…………。……まあ、やるならこのへんにしとけよ」

まさか、他の男の首筋を咬むな などと言うことができようはずもなく
俊は腕を蘭世の目の前にぬっと差し出す

「そうねっ。こんな風に、がぶ───って」
「!!」

その腕を蘭世はぱっと掴んで、咬みつくような仕草をとり───勢いあまって
やわらかな唇が、俊のまくりあげた袖と手首とに、ふと触れた

「あ!  ご、ごめんなさいっっ」
「……い、いや、大丈夫……だけど」

とるものもとりあえずそう答えてみたものの、無駄に心臓が高鳴った
唇以外の部分に相手の唇が触れる姿というのは、改めて目の当たりにすると
意外に……こう、くるものがある

「か……帰るぞっっ」
「へ? あ……、うんっっ」

ぶるぶると何かを追い出すように首を振り、ぐいと手を引いて歩き出した俊の手が
心なしか、いつもよりほっとあたたかくなったその理由を、蘭世は知らない

「あと…………」
「え?」
「…………そういうときは、おれの名前を出すこと」
「!! う、うん…………!!」

照れの極致の勢いに任せ、俊は最後の棘を自ら打ち消す
そちらを見ることなくずんずん進む俊の手を、蘭世はぎゅっと握り返し、その背を追った