・浮雲:物事の落ち着かず不安定な状態の例え


* * * * *







トレーニングも終盤にさしかかり、ラストスパートの前にひと休み
首にかけたタオルで汗を拭う俊の横で、同じく汗を拭っていた日野が
なにやら神妙な面持ちで話し掛けてきた

「今日も、江藤、来ねえの?」
「え? ああ……大詰めらしい。委員会」

蘭世が所属するのは、文化祭実行委員会
そしてその主たる目的である文化祭の開催まで、残すところ一週間
彼女が部活へ出席できないのは何も今に始まったことではなく
ここ最近ずっとこの調子だった

「そんだけか?」
「は?」
「…………」
「…………どういう意味だ」

一見意味ありげに、その実からかう目的のほうが強い彼の視線は、いつものこと
そして、主題が主題なだけに、結局俊がくいついてしまうのもまた、いつものことだった
けれど今日に限っては、その面持ちが崩れることはなく

「……問題外ってことなのかもしれねえけど……一応、な。一応」
「なんだよ」

やけに勿体ぶった前置きのあと言い放たれた言葉に、俊は目を丸くした

「江藤……いま、同じ委員のヤローにすっげえアタックされてるらしいぜ」
「は?」
「で、昨日……とうとう告ったって」
「…………………」

彼女が部活に顔を出さなかったのは、昨日も同様のことだが
それでも実は、委員会を終え立ち寄る彼女と、部活動のあとひとり部室に残って待つ自分とが
帰り道をともにするその習慣は、変わらない
けれど、昨日の彼女の表情からは、そんな事件があったことなど微塵も読み取ることはできなかった

俊の沈黙を、余裕のそれとして受け取ったのか、うんうんと頷きながら日野は続ける

「まあ、もともと江藤には固定ファンが多いしな……
……あの、癒される感じがたまらんらしい。胸に顔を埋めて、頭撫でてほしくなるっつうか……」
「…………………!」

その裏に秘められているのであろう意味合いを敏感に感じ取り、俊は
椅子を蹴って立ち上がってしまう
瞬時にして、周りの空気がぐらりとゆらいだことにまで気づくことはできなかったものの
鬼のような形相で自分を睨み付ける俊を、日野は、いざとなったら逃亡の姿勢をとりつつ
慌ててなだめにかかった

「うわあ!  お、落ち着け真壁っ。おれが言ったんじゃねえって! 
まわり!  周りの意見!!」
「……まわり……」

そんな危険な視線に彼女は、日々さらされてしまっているのか
多少落ち着きを取り戻しつつも、決して穏やかにはなりえず
俊はげんなりと腰を下ろす

「聖母マリアさま〜…ってヤツじゃねえ? この学校、クリスチャンばっかだからな」

その様子に半ばほっとしながら日野は言い、おれは違うけど、と小さく笑った

「で、問題のヤツなんだけど。……つうか……おれのクラスのヤツなんだけど……
江藤の追っかけで、委員会まで立候補してたんだよなあ。んなキャラじゃなかったのに」
「…………………」
「いや、おれは止めたんだぜ?  命が惜しかったらやめとけって
そしたらあいつ、なんて言ったと思う?」
「……………なんだよ」
「おまえと江藤は別に、つきあってるってわけじゃないんだろ? だとさ」
「…………………」

絶句してしまった俊を一瞥し、日野はふうっとため息をついた

「おれは部活中ずっと、おまえの熱〜い視線を見てるから分かるけど……
他の奴らには、そううまく映ってねえって話だよな。それに」
「…………………」
「なにより江藤本人が、“おまえの彼女”じゃないって言ってるらしいぜ」

一部、聞き捨てならない表現があったものの
それに続いた言葉は、妙にざっくりと俊の胸に突き刺さった

──────けれど確かに彼女は、“彼女”ではないのだ。俊にとっては

「おまえにはなんも言わないだろうけど……そういうのって結構キツいんじゃね?
他のヤツらの前では妙にそっけなく当たるし、江藤だけじゃなくおまえも妙にモテやがるし……
その手前、はっきり周りに言えねえんだろ。江藤も」
「う…………」

日野の言うことがいちいちもっともなものに思え、不覚にも、言い返すことができなかった
ひやかし担当のようでいて、実は彼は周りのことを良く見ており
おまけに、人の心というか、その場の空気を読み取る能力が長けているように思う

あえて主張する必要もない。けれど、問われた場合でさえそう答えてしまうのだとしたら
彼女の心境のフローチャートはきっと、そんなところなのだろう

「……んで、おまえそんな感じだから、江藤も相談できずじまいなんじゃねえの」
「そ…………」
「だって、現に知らなかったじゃん、おまえ」
「…………………」

彼の言葉に妙に納得させられたうえでのこの追い討ちは、ある意味、とどめとなり
俊をボコボコに打ちのめす

「大体、江藤の人気だって……知ろうともしてなかったってことだよなあ
もうちょっと、なんていうか……やさしくしてやれよな、いろんな意味で」
「…………。……おまえに言われたくねえよ」

やっとの思いで、俊は負け惜しみを返した







「──────ふう……」

部活動のメンツも去り、例のごとく俊はひとり居残りで自主トレ
もうそろそろ、彼女が委員会を終え部室へやってくる時間帯だった
しっかりシャツを見につけ、洗い髪をタオルでがしがしと拭いながら俊は
夕方の、日野とのやりとりを思い出していた
否、頭の隅を離れることはなかったというのが正直なところなのかもしれない



『おまえと江藤は別に、つきあってるってわけじゃないんだろ?』



確かに、つきあって欲しい・つきあおう 等々
具体的な言葉にしていないのはまぎれもない事実
けれど逆に言えば、改めて言葉にしていないだけで
互いに誰よりもお互いを欲し理解しあった関係を構築できていると思う
言葉にできないのは、彼女との関係を、単に“つきあっている”などという
ありきたりな単語で片付けたくないという、心の問題なのだと思う。思っていた

──────じゃあ自分は、ありきたりな言葉に見合わないだけのご立派なことを、どれだけできているのかと

たとえばこうして一緒に帰るとか、いざというときは絶対に護ると心に決めているとか
そんなことは、ごく当たり前のことでしかない。自分がそうしたいから勝手にしているだけだ
彼女が心から喜んでくれるようなことを実践できているかといえば、この有様



「…………告白、ねえ……」

万にひとつの望みもないのに。それだけは無駄にある自信をめいっぱい引き出しながらつぶやき
本当のところは、簡単に好きとかどうとか口にできる輩を羨ましく思ってもいる自分に気づく

すこし前よりは遥かにマシになったとはいえ、それでも一般的なレベルでいえば
まだまだ自分は感情を表に出すことが少ないように思う
それが僅かのブレもなく、正確に、自分の想いを示すことができるかどうかはさておき
彩づいた言葉を口にすれば、彼女は確実に喜んでくれるであろうことを知っているのに、それでも二の足を踏んでしまうのは
そして、何度自らを省みたつもりでも、結局同じ轍を踏むその繰り返しになってしまうのは
自分の度量が足りないということなのか、それとも単なる怠惰ゆえのことなのか



「………………」

湿ったタオルを適当に丸め、カバンに放り込む
ぐしゃぐしゃの髪をかき上げながら、八つ当たり気味にどかっと腰を下ろし、俊は
彼女がここへやってくる、その瞬間を待った





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