家に着いたころには、そろそろ小腹も空いてくる時間帯
そういえば、帰ったら新作のクッキーを披露するとかしないとか、魔界へ向かう道中口にしていたような気がする
もっと急いで帰ってくればよかった そんな気楽な悔いのみを残した俊の姿を
いつものとおり玄関で出迎えた蘭世の表情や声は、いつものそれとはまったく異なり、深く沈みきっていた
「おかえりなさい……」
「ただいま」
「あの……」
「……喉かわいた。茶でも飲むか」
俊のスリッパを履きやすいよう揃えながら、彼女はおずおずと切り出す
それを遮り返した俊の言葉に、はっと何かを気づいたように口元を押さえた
「あ……ご、ごめんなさい、すぐ」
そして即座にぱたぱたとキッチンへ走る
その背中を眺めながら、俊もゆっくりと居間へ向かった
「ど、どうぞ……」
「サンキュ」
ようやっとまともに声を絞り出してはいるものの、お茶を差し出す細い腕は
目に見えてがくがくと震えている
それを殊更に見ないふりして俊は、何気ない会話を続けた
「彼女は……どうだった? あと、卓は?」
「えっ? あ……ああ。帰り道、なるみちゃん家に寄ってみたんだけど、逆に気を遣われちゃった……」
「そうか」
「……た、卓は……やっと寝てくれたところ、で……」
「………………」
「!!」
腕を掴んだ瞬間、蘭世は飛び上がらんばかりの勢いでびくつき
手にしていた自分のカップを取り落としそうになった
まん丸い目をいっぱいに見開きこちらを凝視するのをまっすぐに見返し、俊は笑う
「震えてる。……どうした?」
「…………っ」
つとめて穏やかな口調に徹したものの、それが彼女にうまく伝わったかは判らない
“なにもなかった” それが名実ともに明らかとなった以上、あえて話題に出す必要もないと思った
過去まで行って真実を確かめてきたなどと、そんな格好悪いことを
ちらりとでも匂わせるような真似をしたくなかったからというのもある
とはいえ、ここまで本人が気にしている───多分自分が彼女を疑っていると思い込んでいるに違いない───以上、このまま放っておくわけにもいかず
かといって、自分がどこまで知っているのかを、おいそれと明かしてしまうわけにもいかず
つかず離れず、遠からず近からずの言葉を俊は切り出す。こういう駆け引きがいちばん苦手だ
「……さっきのことだったら……少なくとも、おまえに非はないんだろう」
「!!」
「堂々としてればいい」
「…………ありがとう……」
カップを無事テーブルに置いたのを確認し、俊は蘭世を自分のとなりへ手招きする
二人がけのソファの空いたスペースへ目をやり、足を一歩踏み出そうとして結局やめて
蘭世は俊をじっと見つめた。続く言葉もいまだ震えたまま
「でも……ご、ごめんなさ……い……」
「だから、いいって」
「じゃ、なくて……。ずっと……だ、黙ってた、から……」
「………………」
迂闊だった
彼女の場合、ことの真相を自分がどう思うか(あるいは疑うか)と同様、もしかしたらそれ以上に
そんなことがあったということを自分に秘密にしていた事実を気に病むに違いなかったのに
魔界からひとりしょんぼりと帰っていってから今まで、こんな青ざめた顔のままずっと
自分が帰るのを待っていたのだろうかと思うと、たまらなくなった
俊は、立ち尽くしたままぐっと握り締められていた蘭世の手を、力まかせに引き寄せる
バランスを崩し倒れ込む細い身体を胸で受け、しっかりと抱きしめた
「馬鹿。……そんなこと、気にすんな」
「でも…………!」
「言いたくない……というか、思い出したくないことくらいあるだろう。誰だって」
「…………う、ん……」
“なにもなかった” だからといって、全てをうまく割り切れるわけではない
その葛藤を表に出すかどうかはさておくとしても
彼女がどんなに胸を痛めたかくらい、容易に想像がつく
俊のカーディガンを頼りなく掴む指先から推し量れるばかりではなく
普段はあんな、自分の痛みを前面に押し出すような責め方を
たとえ相手に非があろうとも、彼女はけっしてしない筈だからだ
そこまで判っていてもはたして自分は、過去ですべてを明らかにすることなくとも
今と同じ言葉を口にすることができただろうか
自分の器の小ささに、ちくりと胸が痛む
「あまり……覚えていないの。確か、冬だというのに突然嵐になって……それしか」
「…………そうか」
まさかそれは自分の仕業だとも言えず、俊は、曖昧に応えつつ流れる髪を撫でた
蘭世にしてみれば、俊がアロンと話をつけていたことは感じ取っていても
あれやこれやの手を尽くし、実際の現場を見に行ったとまでは知る由もないから
ある意味余裕の現れである俊の笑みは、いたわりの、気を遣った笑みに思えてしまい
“自分の言葉で”それを否定することに必死になり───その姿は、なんだかやたらと愛おしい
「で、でも、なにもなかったのよ!? ホントよ!?
ろくに覚えてもいないのに、こんなこと言い切るのは変だけど、でも……!」
「まあ、そうだろうな、と思う……あいつのことだし。それに」
「え…………、あ」
髪にするりと指を差し入れ、重ねた唇のやわらかさは
先刻、ほんの一瞬だけ触れたそれと、さして変わらない
ただ、受け身ながらも懸命に、俊の働きかけに応えようとする姿勢だけは異なり
時折もれる吐息がますます俊を甘く誘う。そして、いまこの瞬間の幸せを再確認させられる
「……たとえ何かあったとしても、おれが忘れさせてやるから」
「………………う、……」
「だから、泣くな」
かくかくと首を振って応えながら、それまでずっと堪えていた反動なのか
見開かれていた蘭世の目からは大粒の涙がぶわっとあふれ、こぼれ落ちる
唇を今度は目元に寄せ、そっとその涙を舐め取り俊は
再び蘭世を強く抱き寄せた
忘れさせるというのは、もちろん、過去に何があろうと自分はもう
彼女を手放すことなどできやしないという意味なのだけれど
口にしてみて、改めて気づく
必要とあらば、他の誰か、あるいは、彼女と自分以外の全ての命を消すことも
文字通り、彼女の記憶そのものを消すことも
眺めているだけで満たされてしまう、彼女の笑顔を護るためなら、それくらい全く厭わないのだということに
怪しげな薬を使うなんて小賢しい真似など、今の自分に比べれば可愛らしいものだ
赤子を寝かしつけるように蘭世の背をぽんぽんと叩きながら、こっそりと俊は肩をすくめた
「…………も、ね」
「うん?」
どれくらいの時間こうしていたのか、窓から見える外の景色はそろそろ夕暮れせまる黄昏どき
なにごとかをつぶやきながら蘭世は、もそもそと俊の胸から顔を上げる
「あのときもね、あなたに助けてもらったの」
「……おれに?」
「うん……エヘヘ。……きれいな夕焼けね」
「?? ……ああ……、?」
“助けてもらった” そんな言葉に一瞬どきりとさせられつつ、
大好きな笑顔に戻り再び胸に頬を寄せ、窓の外に目をやってしまった彼女からその真意を尋ねることはできず
俊はただ、心から同意した部分にのみ肯定の返事をした
そういえば、なぜか幼いころの自分は彼女を知っていた
一緒に夕焼けを眺めたから“夕焼けのおねえちゃん”。我ながら安直すぎる
けれど、どこか物哀しかったはずの夕焼け模様が、心惹かれるものになったのは、あの時からだったように思う
背に回した手に力を込めると、彼女はますます嬉しそうに微笑む
ぴたりと身を寄せ合ったまま、窓の外、ゆっくりと沈みゆく夕焼けをふたりは眺めていた
end
* * *
ひとこと言い訳:
作中で、“夕焼けのおねえちゃん”という呼び名(?)を批判したようなニュアンスの部分がありますが
“夕焼けのおねえちゃん”と蘭世ちゃんを慕った過去の自分のことを、真壁くんは照れそうだなと思ったので
ああいった書き方をしています
私自身、“夕焼けのおねえちゃん”のあたりのエピソードが大好きですし、誤解をされても困る
(のと、作中でそれを表現できているか不安) ので、言い訳させていただきました