俊のアパートまで、残すところあと五十メートルほどのところで突然降り出した雨は
ふたりの髪を制服を、容赦なく、かつ、まんべんなく打ちつけた
風とともにやってきた、冬の驟雨。もう少し早く家路についていれば当たることはなかったのにと
傘を忘れた自分(たち)の不手際を棚に上げ、苦笑しながら走った
文字通り濡れネズミとなりながら部屋へ滑り込み、玄関に立つ蘭世にタオルを放り投げて俊は
部屋の小さなヒーターを点ける
箪笥から適当にシャツを二枚ひっつかみ、うち一枚と、ないよりはマシ程度のジーンズをヒーターの前に広げ
再び玄関へと戻り、髪を拭う蘭世に呼びかけた
「もうちょっとであったまると思うから……部屋ん中でとりあえず、着替えろ」
「えっ……」
一瞬、きょとんとした顔をして俊を見返し、その手にシャツが引っ掛けられていることにめざとく気づき
蘭世の表情は、ほんの少し非難めいたものとなる
「…………真壁くんは?」
「おれ? ……は、こっちで着替えるから……その」
「そんなの駄目よ! だって、ここ、すっごく寒いもの!!」
確かに、安物とはいえ暖房器具がある分、居間はまだ幾分マシだとしても
玄関から台所にかけてのエリアは、下手をすると室外とさして差がないくらいに冷え込む
寒いと言い切った直後、蘭世は大きくくしゃみをした
「……ほら、風邪ひく前に早く入れ」
「でも……」
「いいから」
「………………。ちょ、超特急で着替えるからっ」
「はいはい」
納得のいかない表情を残しつつも、言い争うだけ時間の無駄だとも判っているから
蘭世は猛ダッシュで部屋へ駆け込んだ
「…………真壁くん、そんな隅っこにいなくても……」
「おれのことはいいんだよ。それよりおまえ、体冷やすなよ」
「う、うん……でも」
ヒーターの前に座った蘭世が、部屋の隅に腰を下ろした俊を振り返る
“超特急”の言葉どおり、猛烈な勢いで着替えたらしい彼女は
すぐさま俊を部屋へと招き入れた
本人は意識しているのかいないのか、濡れ髪で、明らかにサイズの合っていない服を身に着けた
今の姿は、妙に艶かしく映る
ともすれば、どうにでも簡単にできてしまうほどの華奢な身体なのだということが
ひと目で認識できてしまうからかもしれないし
状況が状況なだけに、下はともかく上は、シャツを取り去れば素肌なのだろうとか
いろいろ考えさせられてしまうからかもなのかもしれないけれど
シャツどころか、何も身に着けていない姿を幾度となく目にしてきたというのにこの始末なのだから
きっと自分は、そういう性癖の持ち主なのだろう
確かに、さすが安物であるだけあって、そのヒーターの効能は
俊の座った位置まで及んではこない
けれど、そのヒーターに頼るよりも、もっと暖かくなる方法を知っている自分が
いま彼女のそばへ近づくのは、まずいのだ。だからこうしてある程度の距離をおいて
──────と。ぐちゃぐちゃ考えていた俊の顔を、ヒーターを手にした蘭世がまっすぐに覗き込んだ
「……えへへ。あ、コードはここまでしかとどかないのかあ……」
「!! な、なにやって……」
「え? ああ、わたしも壁に寄りかかりたいなって思って……
ヒーターもここに置けば、真壁くんもあったかいし、一石二鳥でしょう?」
「………………」
俊の返事を待たず、蘭世はその隣にぽすんと腰を下ろす
ついでに、膝についていた腕へ指先を伸ばし、やっぱり……といった顔をした
「真壁くん……腕、つめたいよ……」
「普通だろ」
「ふつうじゃ、ない」
「う…………」
隙をついて、蘭世は俊にぴったりと身をくっつける。人の気も知らないで、暢気なものだ
以前こんな目にあったときも、結局は誘惑に負け、あれやこれやしてしまったというのに
「……ちょっと前も、こんなこと……あったよね」
「え!? ……あ、ああ……そうだった、な」
意図はまったく異なるにしても、まさに今脳裏に浮かんでいたことを話題に出され
俊は飛び上がらんほどに驚いた
彼女には、人の心を読むとかそういった特殊能力はない
にもかかわらず。最近、殊に、自分が考えていることと同じことを考えている、あるいは口にする瞬間が増えたように思う
どこがどう、と、未だにはっきりと具体例を挙げることはできないけれど
多分自分は、彼女の、自分とはまったく異なる部分に惹かれた
それが、ある程度の年月をともに経た今、互いに影響しあい
ものの見かたやら何やらが似てきたのだろうかと思うと、妙に嬉しくなる
「あのときも確か、どっちも傘持ってなかったんだよな」
「そうそう。でもあのときは、お天気お姉さんの予報も大ハズレだったのよ」
「に、しても……進歩ねえよなあ……」
「……そうかも。学習能力が、ぜんぜんない……」
くすくすと、おかしそうに蘭世は笑う。その笑顔は、よこしまな欲求を浄化するとまではいかないまでも
俊をやさしい気持ちにしてくれた
組まれていた腕をそっと抜き、肩を抱き寄せると、蘭世はその手に指を絡ませて静かに目を閉じる
「でも、たまにはいいかも。今……すっごくあったかいもん」
わざとなのかその言い回しは。盛大に突っ込みたいところではあれど
なんだかんだ言って、彼女のそんなふとした言葉にいつもことごとくやられてしまっているのだから
自分も大概なものだ
ひそかに肩をすくめつつ俊は、蘭世のまだ濡れたままの髪を撫でる
いたずらな雨はすでに上がっていて、半開きのカーテンからは澄み渡った空の欠片が見えた