・火影:灯火の光。灯火で見える物の形や姿。
* * * * *
新しい学生生活を始めるにあたり、自宅のとなりに新しく構えられた、彼と、彼の弟の住む家に
足を踏み入れることができたのは、原則、男性のみだったから
羨望のまなざしで自分を熱く見つめる姉を尻目に、ちょこちょこ遊びにいっていた
ピンクのバラや、ふわふわのレースのカーテンや、やわらかそうなキルトのベッドカバー
何度撤去しても、学校から帰ると寸分違わぬレイアウトに戻り彼を出迎えるという恐ろしい部屋に
つっこみを入れるのは、二・三度目の訪問でやめることにした
なにより、住人である彼自体が抵抗をやめてしまった(トレーニングでくたくたになって帰り
そのまますぐ寝てしまうので、外観はどうでもよくなったらしい)のと
彼女(? 女人禁制を謳うあたり、勝手に女性だと断定した)が、遊びにくる自分のために淹れてくれた
桜の花びら入りの紅茶が、思いのほかおいしかったから
彼女の意思はともかくとして、このロマンチック全開なレイアウトは
なんとなく、この場にはいないひと───姉───を思い出させる
姉という存在が、彼と自分との共通のカテゴリの7割方を占めているせいもあり
他愛もない話のネタが尽きると、なんとなく話題は彼女のことへと移った
いつもなら、本日のドジやら、思い起こすだけでくすりと笑ってしまうような話で終始とどまるのだけれど
ふたりが落ち着き、なんだかいいムードを醸し出しているのが見て取れたからなのか
なぜかあのときは、それまで口にするのは禁忌としていた、彼が一時期姿を消してしまったときのことが
するりと口元を滑り落ちていった
「……でもね、最近、気持ち悪いくらいご機嫌なんだ、おねえちゃん」
「へえ」
「今だから言えるんだけどね、おにいちゃんがいなくなっちゃたときなんて、すっごい落ち込んでたんだよ
人間になろうとしたりして……止めたんだけど」
「そうか」
「…………あ」
口にしてしまってから、自分の配慮不足にはっと気付く
ほかでもない、自分の目の前に座る、この人は
「……あ、あのね! ほら、おにいちゃんを探すんだったら、魔界人のままのほうが
なにかと便利だと思ったんだ。だから、ぼく……」
「………………」
「……ごめんなさい……」
姉が人間になる それ自体が自分にとっては哀しいことなのだと
本音がにじみ出てしまった言葉尻を、あの日、姉に対して投げ掛けたものと同じ台詞であわてて繕う
けれど結局、最後に出たのは“ごめんなさい”
ここで謝るということは結局、本音はそうなのだと、さらに強調することに他ならないのに
「バカ、なんで謝るんだよ。それでいいんだ」
「でも……」
「それでいい」
「………………」
“ぱっと見、クールに見えるけれど、実はすごくやさしいのよ”
頬を染め、それだけでは足りぬとばかりにハートマークを撒き散らしながらの姉の言葉どおり
言葉を次ぐことができなくなった自分を静かに諭す彼の目は、とてもやさしい
姉が必死で追いかけたのもうなづける。そして、その姉のもとへ帰ってきたということは
「…………うん、もう安心していいんだよね。よかった」
「………………」
「……おにいちゃん?」
ほっともらした言葉に、彼は答えなかった
かわりに、もてあまし気味ですっかりぬるくなっていた手の中のコーヒーを一気に飲み干して
自分とはまったく異なる見解を示した
「……おまえの姉貴は、強いよ」
「え」
「おれよりはずっと」
「………………」
確かに、彼がいなくなるよりもう少し前、突然赤ん坊へと生まれ変わってしまったとき
それを抱いた姉は、雪の中、凛として立っていた
果たして元の姿に戻るのか。また、戻ったとしても自分たちの運命すらどうなるか判らない
そんな状況の中、すべてを飲み込む強さで、命がけで
──────けれど
「それは、おにいちゃんがそばにいるからだよ……」
「………………」
いつの間にかぐっと力を込めてしまっていたティーカップを、彼はそっと見やった
自分よりもかなり大きな手でそれをそっと奪い、テーブルへ非難させると
ふわりと持ち上がり、勝手に開いたドアから、コーヒーカップとともにゆっくりと出て行った
彼女は、後片付けもそつなくこなしてくれるらしい
「姉貴のこと、好きか」
「へ? そ、そりゃ、まあ……」
「……いざって時は、頼むな」
ちょっとずれた問いかけと、猛烈にずれた要請と
おいそれと承知するわけにもいかない、彼らしくない台詞の連続に驚く
「そ……それはおにいちゃんの役目だよ。だって…………」
「……もしもの話だ。おれは人間になっちまったから、咄嗟のとき
うまく助けられないかもしれねえだろ」
「……う、うん……そういうこと、なら……」
それでも、自分の細っちい腕よりはきっと、姉をしっかりと支えられるに違いないのに
そして何より、姉が求めているのはただひとり、彼の腕だというのに
「ぼ……ぼく、もう、おねえちゃんが泣くところ、見たくないよ」
「………………」
彼はやっぱり何も返さず、ただ静かに笑った
“やさしい”だけではない、どことなく辛そうなその笑みに、思わずそんな言葉を返してしまったのは
今にして思えば、無意識のうちに感じ取っていたからなのかもしれない
それからほんの少し先───そっと覗いた扉の向こうで先刻まで繰り広げられていた、哀しい別れを
ガキの口出しすることじゃない───くってかかった自分を一蹴した彼の台詞はもっともだ
ガキはガキなりに、ガキだからこそ言えることを
それが禁忌などと思わず、言えるだけ言っておけばよかったのだ
彼がいなくなったあと、姉がどれだけ打ちひしがれていたのかを
自分たちの前で、そして、きっと自分たちには見えないところでも、どれだけ泣いていたのかを
自分よりも、もっと強く深く彼は姉のことを愛しているのだ。それくらいは判る
それなのに、どうして。それだけは判らない。──────判りたくなんか、ない
罵倒を浴びせながらも、夜の道へと走り去る彼の背中を、じっと目で追った
こんなときにまで見入ってしまうほど、そのフォームがとても綺麗だったから
船のような月の照らす光が、やけに目にしみて、彼の姿がじわりとぼやける
気がつけば薄く零れ落ちていた涙を、母に見られてしまわないようそっと拭った
旧り難し月 →