・乾坤:天と地。陰と陽。


* * * * *







魔界の后が目覚めたその日。それを祝福するかのように晴れ間を覗かせた空を
ふたりはバルコニーに佇み、眺めていた
やさしく吹く風に、ランゼの長い髪がさらりと揺れる

「……まずは、一件落着だねっ」
「ああ……」

にこにこと微笑む彼女は、ほんとうに不思議な存在だ
その微笑みは、幼いころあの部屋で感じたものと似た安らぎと
諦めかけていた自分を奮い立たせるかのような、強いエネルギーをくれる
特殊な能力など、なにも持ち合わせていない筈なのに
自分では気づくことすらできなかったこと、或いは
もう一歩を踏み出せずにいたことが、実はとても簡単なことなのだということを
ごく自然に教えてくれる

彼女のおかげで、いろいろなことを知った
自分自身の弱さについても

「本当に、よかったねえ……。わたし、見てて感動しちゃった!」
「………………」
「シュン、くん?」

遠くに目をやりながら黙り込んでしまったシュンを、ランゼは振り返る
今までずっと願い続けていたことが、ようやく実現した直後だというのに
その顔は、なぜか浮かない、物憂げな色に染まっている

「……うん」
「ん?」
「ランゼの言うとおり、ふたりじゃなきゃ、駄目だったんだろうな」
「そうよ───! だってほら、双子のパワーはすごいのよ!」
「……そういう、意味じゃなくて」
「…………え?」

幼いころは、よく泣いた。実は自分は呪われた存在なのだと、自分自身ですらも思い込んでいたから

あからさまに悪意に満ちた目を向けてくる輩よりも
表面上、従順に仕えるようなそぶりを見せつつ
裏では興味本位で噂話を膨らませる そんな輩を相手にするほうが辛かった

そんなとき、人目を忍んでこっそりと向かっていたのがあの部屋だ
静かで、規則的な寝息に耳を傾けながら、横たわる母の白い手をとる
深い眠りに落ちた母の手は、誰の手よりもあたたかくやわらかく
頬にそっとあてがうだけで、ささくれだった心がするすると潤っていくような気がした
けれどその心の端で、微かながらもぐずぐずとくすぶり続けていたのは

──────母上にとって、おれという存在は、いったい、何、ですか?

さみしいとき、或いは、周りの重圧に耐えられなくなったとき
ほっと安らぐひとときをくれたのは、その部屋だった
けれど、自分がどうしようもなく無力な存在であることを
思い知らされるのもまた、その部屋だったのだ

「……ガキのころは、いろんなことを考えた。おれはやっぱり生まれてきちゃいけなかったんだな、とか」
「そんな…………」

たとえ自分が魔界の王子であったとしても
子供は子供だというだけで、親から愛されるべき存在なのだと、本能的に知っていた
眠りに落ちた原因が自分にあると囁かれ、自分自身でもそんな心境に至り始めながら、それでも
子供である自分が隣で泣いているというのに、眠り姫のように依然と目を覚ますことのない母を見るのは辛かった

もし、ここに残ったのが自分じゃなかったら、どうだったろう
呪われているのは“双子”ではなく、実は自分のみなのだとしたら?
だから母は眠り続けるのではないか、と

「──────母上は結局、おれひとりじゃ、目を覚ましてはくれなかったんだよな」
「……ど、どうしちゃったのシュンくん! ほら、お后様がずっと眠っていたのは
ロウディンってひとが飲ませた薬がすっごい強力だったから、でしょう?」
「その“強力な薬”から母上を救うのには、おれだけじゃ駄目だったんだなってこと」
「だからそれは、双子のパワーが……!」
「じゃあ、今までのおれはいったい何だったんだよ!!」

人間界に追放され、こちらの事情などつゆ知らず、心から自分を愛してくれる両親とともに育った弟を
認めはしたものの、どうしても、それまで自分が置かれてきた境遇と比較して見てしまう自分がいる
物理的には、とても恵まれた環境だと思う
けれど、心が本当の意味で満たされたことは、多分、一度としてなかった

いつも母の傍にいて、ときに試行錯誤して、最後にはいつも自分を追い詰めて、ひとりで泣いた
なのに母を目覚めさせるには、そんな自分だけでは足りず、何も知らない弟の力が必要だったのだ

「……なんで、おれだけじゃ……駄目だったんだよ……」
「………………」

手摺に掛けた指が軋む。気を抜けば涙がこぼれそうだった
ランゼはじっとシュンの顔を見つめたまま、何か考え込むようにじっと黙り込んでしまう
彼女に対しては、なにも隠す必要はない そう思う
けれどこんな、胸の奥に抱えた闇の部分までさらけ出したくはなかったのに







「…………わかった」
「え……」

重苦しい沈黙のまま、どれだけの時間が経っていたのか
一転して、いつも通りの明るい声色に戻ったランゼがふとこちらを振り返る

「わかっちゃった。シュンくんってば、コドモだなあっ
お后様の愛情を、ひとりじめしたいんでしょうっ」
「なっ……! ち、違…………」

即座に否定しかけて、けれど実はそれが図星であることに気づいて
図らずも、語尾が途切れる
それは当然彼女にも伝わったのだろう
肩を小さくすくめながら、ふうっとひとつため息をついて笑った

「なにいってんの。おかあさんにとって、自分の子供は平等にたいせつなのよ!
優先順位なんて、付けられるわけないじゃない」
「………………」

確かに、それはそうかもしれない。自分だってそれくらい判っているのだ。理屈では
けれど、それでもうまく割り切ることのできないものも、確かにある
言い返そうとしたシュンの目をじっと見つめながら、ランゼはほのかに頬を染め、言った

「…………でもね」
「え」
「わたしは、シュンくんのおかあさんじゃないから、選べちゃう
……シュンくんがいちばん、大好きよ」
「………………」





彼女のおかげで、いろいろなことを知った
自分自身の弱さについても

気がつけば不安定な境目に立っている自分を、ごく自然に引き上げてくれるのも
そして、今の自分が何をいちばん求めているのかまでをも教えてくれるのも
きっと彼女に他ならない
照れたようにエヘヘと笑うランゼの頬に、シュンはゆっくりと指先で触れた