・綺羅:輝かしさ、華やかさ、栄華を極める事。


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ひさびさのお出かけのテーマは、花見。花は花でも、梅のほうだ
吹き荒れた冷たい木枯らしが、少しずつその表情を穏やかなものに変えゆくなか
その身をもって春の訪れを伝えてくれるその花は、ふたりの街でもそろそろ見ごろ
鮮やかに咲き乱れる姿を愛でるのが第一の目的なのだから、もう全っ然、なんでもないことなのだ
いつもよりもぷるぷるつやつやに仕立て上げた自分の唇に、彼が気づいてもくれないことなんて



梅の花は、自分より長身の彼でもほんの少し見上げる位置に咲いている
通りの左側には白梅、右側には紅梅。ときたま首を振りそれらを交互に眺めるその動線に
自分の顔どころか、頭のてっぺんすらも掛かってはいないのだろう。きっとそうなのだ、そう思うことにした
だってその花たちは本当に綺麗だから。彼とならんでそれを見ている今の瞬間は、本当に幸せだから

吟味に吟味を重ね、何時間もかけて選んだ、ほんの少し濃いめのチェリーピンク
そして今日も。いちど塗って、ちょっとわざとらしいかなとティッシュで押さえて
押さえすぎちゃったかなとまた塗って
何枚も無駄にしてしまったティッシュには申し訳ないけれど、空回りして終わるのも実はけっこう楽しい
今度は気づいてくれるように、がんばるぞ───、と。楽しみをまた次にとっておけるということでもあるのだから

そう、がんばるぞ、と──────

「………………」
「え、な……なあに?」
「…………いや……」

ゆっくりと歩きながら梅を追っていた彼の視線が、ふと自分の顔を見下ろす位置でとどまる
そんなに大きな声で考えてしまっていただろうか、あるいは、つないだ手から邪念が伝わってしまったのだろうか
一瞬のうちにぐるぐるといろんなことを考えた
自分の頬はひきつっているに違いない。が、それを特に気に留めるわけでもなさそうに
彼は再び花の咲き誇る枝へと視線を戻す

「…………油ものでも食ってきたのかと思った」
「!! ち、ちがうよっ! これはグロスっていってっっ……!」
「ふうん」

『唇をみずみずしく、かつ、つややかに彩ってくれるものなのです』
ショップのおねえさんの受け売りの説明を続けようとした勢いは
彼の、まったくもって気のなさそうな相槌によってぶった切られた
今日の唇の異変(?)にはしっかり気づいていたようなのに。そのうえでこの反応では、自分も黙るしかない
というよりも、心が一気に暗く重く沈んでゆくのを止められそうにない

「…………あの……、似合わない……?」
「別に……そんなことはねえ、けど……」

それなのに、よせばいいのに駄目押しのようにこんなことを尋ねてみたりする
勝手に悩んで勝手にうきうきして。それが楽しいと思ったのはほんの一瞬前のことだというのに
彼の反応ひとつでこんなにも簡単に、その価値観はがらがらと音を立てて崩れていく
彼が喜んでくれなければ。何もかも、意味がないのだ

「…………困る」
「……………………」

やっぱり自分には唇には目もくれず、彼は呟くように言った
それは、嫌悪感を直接示されるよりも、ずっと鋭く胸に突き刺さる言葉だった

きっと彼は、気を抜くと涙をこぼしてしまいそうな自分の心境にも気づいているのだ
だからこんなに、痛いくらいに、つないだ手を握る力を強めて。こんなにもまっすぐに自分の目を見つめて
──────って

「え…………」
「…………、なことを、したくなる」
「──────」

梅の花の紅と白。にじんだ涙のせいでぼやけていた視界は、近づいた彼の顔によって塞がれ、真っ暗になる
音もなくほんの一瞬、啄ばむように触れるだけのキスですぐさま離れ、何事もなかったかのように彼は
再び、先刻までよりも歩調を速めて歩き始めた





やわらかな風が通り抜け、唇をくすぐる。我に返った彼女の視界にはもうひとつ、紅が増えた
ずかずかと進む彼の、長めの後ろ髪に見え隠れする耳を追い、小走りになった彼女の
いつもなら白梅のように透きとおる頬もまた、紅梅より濃くそまったことには
彼女自身も、そして後ろを振り向くことなどできない彼も、気づくことはなかった