・後瀬:のちに逢う機会。


* * * * *







自分と同じく人間となり部屋へと戻ったランジェを、ジャンは静かに抱いた

得体の知れない薬を飲まされるらしい そう、噂だけで中途半端に知っていたから
ヘガーテのもとまでついていこうという申し出を
ひとりで歩きたいからと、やんわりと辞したときのほほ笑みと何ら変わらない笑みで
ランジェはジャンを見返す

「体は……なんとも、ないか? 痛みとか……」
「ありがとう、大丈夫よ。お薬は、ちょっと……かなり、複雑な味だったけれど……」
「すまない……」

もちろん、“複雑な味”の薬に対してのみではない

ジャンがそう口にするたび、ランジェはいつも困ったような顔をする
確かに、今、それを言葉にしてみたところで、なにがどうにか変わるものでもない
それでも、考えずにはいられない。彼女が自分とさえ出逢わなければ、愛し合ったりしなければ
そしてランジェにしてみれば。もし逆の立場だったなら、同じ葛藤に苦しむのであろうことが
判りきっているからこそ、できるのはただ、それが自分の意思であることの強調のみとなる

「……わたしのすべてはあなたのものよ。だから、そんな風には言わないで」
「ああ…………」
「それにね、ほら、わたしの力なんて、無くなってみたところであまり変わりないのよ
お茶もいまいちおいしく淹れられなかったし、カールもできずじまいだったし
そうそうジャン、あなたの髪も」

その瞬間ジャンの脳裏には、ある意味芸術的な編み込みをされたときのことが
まるで昨日のことのようによぎった

「…………いや、最後のは……もういい、かな……うん」
「…………。なんだか、すごい引っかかるような気がする、けど…………」
「そ、そうか? 気のせい……だろう。きっと」
「ふうん……?」

無意識なのかどうなのか。ランジェの言葉はいつも心を軽くする
腑に落ちない表情に苦笑しつつ細い手を取ると、肩をすくめて笑い
再び腕のなかにすっぽりとおさまった







「……正直、ほっとしている」
「え」

人間になれとか、なるなとか
それまでずっとジャンは、指示めいたことをただの一度も口にしなかった

髪の香りを確かめるかのように、深く息を吸って、吐いて
ふともらした呟きは、本音がそうであったということよりも、むしろ
自分に対して胸の奥の思いを吐露したこと、そちらのほうに驚かされる

「……ああ、もちろん自分が人間になってしまったからといって
わたしたちの関係がなにか変化するわけでもないのだけれど
…………先に、しかも勝手に、別れを決めておきながら……何なのだけれど……」

その目をじっと見つめてしまったのは、そういう意味ではなかったのだけれど
ジャンはバツが悪そうに付け足した

「そうね。あのときは……あなたと過ごした時間のなかで、唯一、哀しくなったときだわ」
「…………すまない……」

ちくりと刺す言葉に、目に見えてしゅんとする。───なんて、かわいいひと

「わかれば、よろしいです。……で、“ほっとした”って……?」
「ああ…………」

一瞬口を開きかけ、すぐさま閉じて。その間ずっとランジェの顔を見つめながら
ジャンは、なんともいえない微妙な表情をした
心なしか、頬も赤い

「実は、どういう意味でほっとしているのか、自分でもよく判らない」
「え?」
「……おまえが以前のまま───魔界人のままで在り続けたとして
そうしたら十中八九、わたしのほうが先に逝くだろう」
「……そ、うね……。わたしの身に何か、とんでもないことが起こったりしないかぎり」

だからこそ自分は、今のかたち───人間になることを選んだのだから

「多分……お互い人間となり、置いていくにしても、置いていかれるにしても
その差分というか長さが、ほんのわずかになったから……安心したのだ。最初は」
「“最初”……」

──────じゃあ、今は?
言葉で問いかけるより先に、表情が、仕草が、それを訴えていた
思わず絡めてしまった指先にふとジャンは目をやり、そっと唇を寄せながら再び言葉を次ぐ

「人間であろうとなかろうと、おまえには、私が死んだあとも
幸せに生きて欲しいと思ってはいるのだけれど」
「……ジャン! やめて、そんな言い方。だって……!」
「…………幸せであって欲しいと思っているくせに、おまえがその後長く生きていく間に
誰かに愛されるであろうこと、誰かを愛してしまうかもしれないということに
正直、耐えられそうになかった」
「え……」
「死んでしまった後でも、わたしは、おまえをひとりじめしていたいんだ。勝手だろう?」
「………………」

指に口づけを落としたのは、正面から顔を見せたくなかったから───照れ隠しだったのかもしれない
言うだけ言って、ようやくほっと一息ついたジャンの顔は、耳まで赤く染まっていて
ランジェの視線からさらに逃れるように、もそもそとその胸元へ頬をうずめた
その姿は、自分のした悪戯への親からの沙汰を待つ子供の姿にも似て

──────たまらなく、愛おしく思えた

「……どんなに……」
「…………うん……?」
「今、わたしがどんなに嬉しいか……どうすればあなたに伝わるのかしら」
「……………………」

ゆっくりとジャンは顔を上げる。まっすぐに見上げるその瞳の中に、自分の顔が映るのが判った
近づく唇に吸い寄せられるように、目を閉じ、唇を重ねる
ゆるく髪を撫で下りるてのひらが、あたたかく、とても心地よい

いったん唇を離れ、耳朶へと移り、軽く咬み合わせた唇が
首筋をとおって鎖骨のあたりで留まり、それとほぼ同時にドレスの背に触れた手に力がこもる
その瞬間、ランジェは、彼へ真っ先に伝えなければいけないことがあったことを思い出した

「……こ、子供は」
「え?」
「子供は……魔界人のまま、だと……ヘガーテが」







「………………!」

ジャンは思わず、ランジェの顔と下腹部とを何度も交互に見比べた

彼女の口にした“子供”とは、一般的な意味での“子供”ではない。ヘガーテがそう言ったのだと
わざわざ注釈をつけたくらいなのだから
すなわち、“彼女と自分との”子供

そこに行き着く可能性をはらむ行為を幾度となく重ねたけれど、全く気がつかなかった
それ自体は仕方ないことかもしれない
けれどいま直前の自分は、その存在の目の前で、何を言った?

「あ…………」
「……ジャン?」
「……わ、わたしは……。なんて身勝手なこと……を」
「………………」

息が詰まって、続きは、言葉にならない。己の貪欲さ加減が、ただただ情けなかった
じっと腹を見つめる姿勢のまま固まってしまったジャンの背を、ランジェは静かに撫でた

「冷たいことを言うようだけれど……」
「え……」
「この子にはこの子の人生があるわ。そして、親……わたしたちの役割は
この子が自分の人生を自分で見つけ出せるよう、あらゆる道筋を照らしてあげることだと思うの
──────決して、ずっとそばに居続けることではないわ」
「………………」

実際、自分の母は、自分たちを生み落としたのち、ほどなくして亡くなったという
彼女の父もまた同様に、彼女がまだ幼いころ亡くなった
永遠の命をうたう魔界人であったとて、どうなるか、どこまでついてやれるのか
実際のところは、誰にも判らないのだった

「けれど……わたしたちの場合は、違うでしょう?」

“わたしたち”の“たち”の部分を、彼女は心なしか強調したように思えた

「わたしたちはずっと一緒よ……たとえ死んでしまっても
そして、生まれかわっても、わたしはあなたをちゃんと見つけるから、ずっとそばにいるわ。───いいえ」
「ランジェ…………」
「…………そばに、いて……?」

こみ上げていた涙がとうとうあふれて、頬を滑り落ちていった
ジャンは、次々と零れ落ちる涙と目元に唇を当て、他の誰にも聞こえないほどの声で囁く
こくんと頷くランジェの髪を撫で、きつく抱きしめた





──────ずっと、離さない

それは、誰にも侵すことのできない、永遠の約束