意識しなければ、呼吸すらも巧くできなくなるほどの苦しみのあと
ふと目を開けると、となりにはふたりの赤子が横たわっていて
ひとの命というものは、交わり、繋がり、そして広がっていくものなのだということに
わたしはそのとき改めて気付かされたのだった

ぐっと熱くこみあげる涙をこらえ抱き上げたそれらはとても小さく、そしてとても愛おしい
ともに生きてゆくのだ。ずっと、たとえ何があっても、護ってあげる
満ち足りた幸福のなか、ただそれだけをひたすらに誓う
そんな甘やかな時間が、ほんの束の間で砕け散ることも知らずに

あとからうまれたほうを連れていった王の目に、さきにうまれたほうの姿が映ったのは
どれだけの間だったろう

血をわけた親子というものの初めての対面だったというのに、そこには、愛情など欠片ほども見当たらず
王の目線から感じ取れたのは、焦燥と、畏怖にも似た狼狽
そして次の瞬間から、残された赤子とわたしの立場は
『望まれ焦がれてようやく生まれた世を継ぐ者と、最大の務めを成し遂げた王妃』から
『破滅の王子、そしてその母』へとすげ変えられた

なぜ、どうして───すぐさま押し込められた、牢獄のような暗く狭い部屋で、そればかりを考えた
当然、答えなど見出せないまま、時だけがただ確実に過ぎて
久しぶりに赤子と自分以外の者の姿を目にした、そう思う間もなく甘ったるいなにかを含まされ
わたしはゆるゆると意識を手放していった





クリームのように絡み付く闇にたゆたう感覚は、幼いころ揺られたゆりかごのようで
ただゆらりゆらりと堕ちていくのが、心地よいほどだった
指先から少しずつ、たいせつなものが零れ落ちていくのが、なんとなく判る
もやがかかった頭には、理性的な事柄は何も浮かばず、唯一、王が連れていった赤子の姿だけが浮かんだ
あの子はいま、どうしているだろう

わたしのせい、なのだろうか
なにか意に添わないことをしてしまったのだろうか
それが結局、生まれたばかりの子らを巻き込んでしまったのだろうか

もうきっとわたしは、あの子を抱き締めることはかなわない
それどころか、あの子が無事生きているかどうかすら、定かではない

この闇に紛れてしまえればいいのに。消えてしまえたらいいのに。───死んでしまえたらいいのに
そう願う。願った矢先にそれは消えてゆく。願うという行為それすらも、だんだんと忘れてしまいそうになる
それならそれでいい。もうどうでも、なにもかも。いっそ殺してくれればよかった
舌を噛む。口の中に鉄のような味が広がる。……もう少し

───その瞬間、腕の中の赤子が、泣いた



護らなければ───そう思った。この子は、わたしの子なのだ
なにひとつ、判らないことだらけ。そんな中でもそれは、たったひとつの確かなこと
腕の力を強めると、小さいながらに着々と打ちつける赤子の脈が伝わってくる
じんわりと、春のようにやさしいぬくもりが、ふたりを包むのが判る
この闇がどこへ行き着いたとしても、わたしは生きていくから。あなたを護るから
そうねまずは、あなたの名前を。あなたはわたしの子なのだから

わたしはゆっくりと目を閉じる。赤子を抱いた腕の力は緩めぬまま
そしていつしか、思考は途切れ───わたしは、何もかもを忘れた







重度の記憶障害。それがわたしに言い渡された症状だった
社会的通念や一般常識はおろか、読み書きすらもままならないわたしは
記憶を“失くした”というよりもむしろ、もともと“無かった”のではないかという気さえする

「華枝さん、入っていいかしら」
「……はい、どうぞ」

低いノックの後、部屋に入ってきたのはふたりのシスター。手にはいっぱいの花束を抱えていた

「失礼するわね。はい、これ。礼拝堂の庭に咲いたから、華枝さんにも」
「まあ。ありがとうございます……!」

ある日突然この修道院の門前に倒れ込んでいた。そんな出自不明のわたしたちに
このひとたちはとても良くしてくれる
行くあてもないところを、日当たりの良いこの部屋を提供してくれた。これからの生活・生きていく術についても
親身になって相談に乗ってくれた。そればかりか、今この瞬間のように心潤う瞬間を届けてくれたりもする

「これは、なんという花なのですか?」
「スイートアリッサムよ」
「スイ……ート……アリッ…サ、ム……、と」

忘れてしまった、或いは覚えたての文字を思い浮かべ、手元においたノートに書き留める
そのとき見たこと、もの、人の名前。それらを記したノートは既に3冊目
いつからか癖となりつつあったその動作に、花瓶に花を活けていたシスターがくすくすと笑った

「華枝さんたら……勉強熱心ねえ」
「あ……。ふふ、新しいものを見たら、やらずにはいられないというか……」
「でも、すごいわよね華枝さん。普通に文字も読めるようになったし、辞書も引けるようになって」
「はい……そろそろ、この子の名前を決めてあげたくて」
「そうねえ……僕ちゃんの名前だけは、自分でつけるって言っていたのよね」

華枝という名は、ここでつけてもらった。枝に花が綻ぶ春にここへやって来たからなのだそうだ
どうでもいいといってしまうと語弊があるかもしれない。華枝という名もとても気に入っているのだから
けれどやはり、自分の名前をつけてもらうこと、また、名前自体にもあまり頓着が無かった
にも拘らず、小さなベッドで眠るこの子に対してだけは違った。自分で考え、名付けなければいけないような気がしたのだ

大袈裟かもしれないけれど、わたしはこの子に生かしてもらったような気さえする
実際、右も左も判らず、周りも自分を判らない。そんな絶望的な状況の中、この子がそばにいなければ
わたしはきっと、さっさと命を絶ってしまっていただろう
それがいま、こうして生きて。ひとのあたたかさに触れ、心安らぐ日々を過ごしている
なにもかも、生きる勇気をくれたこの子のおかげだ

そしてその結果。この名前が決まるまで、ほぼひと月の時間を要した
数多のなかからたったひとつを選び取るのが難しかったのと、言葉の意味を知らなかったのと。理由はこのふたつ

「で……、決まったの?」
「はい。……俊と。この子は、真壁俊です」
「まあ……。素敵なお名前ね。字面も綺麗だわ」
「ふふ。ありがとうございます……」

一枚紙に書き記しておいたそれを眺めながら、ふたりのシスターは微笑む
新緑の香りを運ぶ風が、部屋のカーテンをやさしく揺らした





* * *

ラストの段は嘘八百なのですが、書き手の願望ゆえの産物ということでご容赦を…!