・流泉の曲:琵琶の秘曲(秘伝の楽曲)の名
* * * * *
勿論いつもというわけにはいかないけれど、少なくともおやすみの日は
夕飯後、そろそろおねむの愛良を寝かしつける役を俊は率先して買って出てくれ
蘭世は、後片付けがてらお茶の用意を整え、ひと仕事終えた彼が戻るのを待つのが常となっていた
例のごとく今日も、愛良を抱き上げていった彼を思い起こしつつ
お湯を火にかけ、カップを並べながらふと時計に目をやると
いつもよりもやけに時間がかかっていることに気づく
「………………」
食後、いい感じにおなかも膨れ、ちょっと横になりたくなる時間帯であるのは
子どもも大人も変わらない
もしかしたら一緒に寝入ってしまったのだろうか その可能性を思い立ち、火を止め部屋へと向かう
息をひそめ覗き込む、薄く開いたドアの向こうで繰り広げられている光景に、蘭世は
思わず我が目と我が耳とを疑った
「───ん?」
控えめに響いたノックの音に、ベッドに肘をつきごろりと横になっていた俊は振り返った
ティーセットを手にした蘭世が、ドアの隙間からひょこっとこちらを覗き込む
「愛良……寝た?」
「いや…………。今日は一日おとなしくしてたからな。疲れてねえんだろ」
「そっかあ……」
と、俊は、その向かいに寝転がった愛良の髪をそっと撫でる
確かにその日は、ずっと細かな雨がしとしとと降っており、今もまだ降り続けている模様
部屋の中で遊ばせはしたものの、やはり、広々とした外を駆け回るのとは疲労度が違ってくる
そのくせ、お昼寝だけはきちんとしてしまったものだから、そのツケは自然と
この時間へと回ってきてしまい───今に至る
そのとなりに腰をおろし、運んできたカップへお茶を落としつつ
蘭世はつとめて冷静に切り出した
「──────だから、歌、うたってあげてたの?」
「!?」
支えていた手のひらから、俊は豪快に顔を滑らせ、べしゃっとベッドに崩れ落ちた
お茶を渡す前でよかった───妙に冷静にそんなことを思ってしまった蘭世のほうを
わなわなと震えながら起き上がり、俊は見やる
「な……な、な…………っ、お、おま…………」
「ああ、さっきこっそり覗いたとき、聞いちゃった。はい、お茶淹れました」
「…………………!!」
不覚にも、その気配すら感じ取ることができなかった
まさに晴天の霹靂。口をぱくぱくさせるしかできない俊を尻目に
しれっと悪びれることなくその衝撃の事実を言い放ち、蘭世は、淹れたてのお茶を指差す
「うふふ、なんだか意外ね〜。あなたが、歌が上手なことは知ってたけど
子守唄なんて……愛良ってば、すっごいぜいたく〜〜」
「………………っっ」
「そうか、一日中雨とか、愛良を昼間あまり騒がせないようにすると
もれなくあなたの歌がついてくるのねえ……ふふふふふふ」
にやにやと笑いながらのその台詞に、“わんぱくでもいい(以下略)”を地で行く俊は
思わず食い下がる
「…………。……おい、子供はちゃんと遊ばせろよ」
「わかってるわよう。ちゃんと遊ばせて、じっくり昼寝させたうえで夜に備えさせようって、ハ・ナ・シ
こんな素敵なことが待ってるだなんて、知らなかったんだも───ん」
「…………別に、今に始まったことじゃねえよ」
「え?」
「あ」
その瞬間、俊の視線と蘭世の視線がぱたりとぶつかる
まじまじと、俊とその向こうに寝転がる愛良とを見比べ、蘭世は何かに気づいたように
素っ頓狂な声を上げた
「あ──────!!」
「うわ! な、何……」
「そういえば最近、わたしが寝かせようとしても、愛良ってばちっとも寝ようとしなかったのよっ
そ、そういうことだったのね!? これまでもずっと聞かせて、て……」
「は? あ、ああ……それは……」
「ずるいずるいずるい───!! わたしには子守唄なんて歌ってくれたことないのに!」
「……………はい?」
俊は再びずっこけそうになるのを、ようやくこらえた
彼女自身口にしているとおり、自分が今まで歌っていたのは“子”守唄なわけなのだが
そしてそれ以前に、彼女を先に眠らせるような真似をこの自分がしてしまおうはずがないのだが
だいたい、あとは眠るだけ(純粋な意味で)の状況となったとしても、さらにそこで愛を歌ってしまうような
余力を残してなどいない(そしてそんな余力に気を遣うほどの余裕もない)
ぽかんと眺めるだけの俊を睨みつけ、蘭世はぐるっとベッドを横切り
愛良をはさんだ向かい側にごろりと横になる
「わたしにも、歌って!」
「はあ!?」
「わたしも寝るから、さっきの子守唄、歌って!!」
「アホかおまえは! なに言って……」
…………というかそれ以前に、もう寝るのか?
俊はふとそう思い───ツッコミどころはそこではないことに気づき、口をつぐむ
「なあに!? 愛良には歌ってあげられるのに、わたしには歌ってくれないの?」
「だから、それは…………」
「そうねそうよね! 所詮あなたも、若い女の子のほうが好きなんだわっっ!」
「若い子って……、あのなあっっ」
急展開するアクロバティックな理論のもと、着々とヒートアップしていた剣幕から一変
今度は、よよ、と目元を潤ませながら、蘭世は
ほやほやとそのやりとりを眺めていた愛良をぎゅっと抱きしめる
「愛良ああああっっ。ごめんね、ごめんねっ。おかあさん、いつまでも若いままじゃいられなくって
いまでこそおとうさん、愛良に夢中だけど、きっと愛良が大きくなったら他の若い子に夢中になっちゃうのよ!
そのときはいっしょに泣こうねっっ」
「な、な…………」
「ほら、愛良まで泣き出しちゃったじゃないっっ」
ものすごいタイミングで、蘭世の腕の中、愛良はあぎゃ───と泣き出す
何なのだろう、この、謀ったかのように同じ顔で泣く親子は
明らかにそれを判ってやっている母親のほうはともかくとして
自分がなによりもそれに弱いということを知りよう筈もない、無邪気なはずの幼な児は
母親の巧みな攻撃を、さらに緻密に補佐する形で
それまで、単にぐずっているだけのような時には見せなかったような勢いで
ぎゃんぎゃんと泣き喚く
しとしと雨でもっていたはずの外の天候も、なにやら雲行きが怪しくなってきた
──────そして、この家の将来的な勢力範囲図が、おぼろげに見えてきたような気が、した
「…………わ……わかった、から!!」
「!!」
やけっぱちで俊がそう口にした瞬間
蘭世の見るからにうさんくさい泣き真似と、愛良のある意味末恐ろしい本泣きはぴたっとおさまった
期待に満ち満ちた表情で、ふたりはこちらを見上げる
そんな表情まで、判を押したかのようにそっくりなのが憎ったらしい
「こ、こ……今夜だけだぞ!」
「うん!!」
妙に熱くなった頬を押さえながら、すう、と息を吸ったその瞬間
こちらを見つめる蘭世の目が見開かれるのが判った
今夜だけのプレミアムステージと銘打ってみたものの、流石に真顔で目を合わせたまま
それを実行するほどの図太さは、未だ持ち合わせておらず
俊は手のひらで蘭世の目元をそっと覆う
80点の歌声は、当時も今も蘭世にとってはやはり満点でしかなく
低いながらも深く、その部屋へと響いていった