いつもどおりの音量でセットしたはずのアラームが、やけに遠くに聞こえた

今日は昼前後に出かければいいから───そんな彼の言葉に従い
セットした時刻はいつもよりちょうど4時間後
自然と外からの雑音も増えてくるとはいえ、不自然なまでのアラーム音の遠さは
決してそのせいばかりではない

「(…………。……起きなきゃ……)」

重い頭を押さえながら、蘭世はのろのろと起き上がり、身仕度を整える







それに続くこと30分後。ほわりと漂う味噌汁のにおいに吸い寄せられるように
俊はダイニングの席につく
そのタイミングに合わせていつもご飯をよそわれる茶碗の数が
今日に限ってはひとつ足りないことに目ざとく気づき
くるくる働く蘭世に彼は問いかけた

「……食べないのか」
「え!? あ───……う、うんっ。なんか……食欲なくて」
「え…………」

思わず眉根を寄せた俊の表情に、蘭世は慌てたようにつけ足す

「ち、違うの、なんでもないから! ちょっと……ほんとにほんのちょっと、
胃がもたれてるだけ。昨日の夜、調子に乗って食べ過ぎたのかしら……なんて」
「………………」
「……エ、ヘヘ。そんなことより、食べて食べて。冷めちゃう。おいしいごはんが台無しで〜す」
「………………おい……」
「あっ、洗濯機、回してきちゃおうかな。お洗濯して、終わったころにはおなかすくだろうしっっ」

朝に限らず昼も夜も、俊が食事をとるときには、席を外したことなど一度もなかったのに
伸ばした腕から逃れるかのように、蘭世はくるりとドアへと方向転換する
その瞬間、足がもつれ、ぐらりと床に倒れこむ
──────倒れこもうとしたところを、すんでのところで俊の腕が抱きとめた

その肌は、驚くほどに熱かった





「……やっぱり……」
「あ………はは………、は……」

バレてしまった。蘭世が恐る恐るそちらを見やるのと同時に、俊は怒鳴りつける

「なんで言わねえんだ、バカ!」
「ご……ごめんなさいっ。でもね、ぜんぜん平気なのよ? 今はホラ、たまたま足が滑っちゃって……」
「平気なワケあるかっ。熱、何度あるんだよ!」
「え……へ、へいね、つ…………」
「……殴られたいのか?」
「…………。は、はっきり数値を見ちゃったら、危険だから……測って、ない……」
「〜〜〜〜〜〜っっ!!」

ビクビクしながらのその言葉に、俊は、蘭世を殴るかわりに軽々と抱き上げて椅子に座らせ
リビングの隅にある電話へと向かい、受話器を取った

「……!  わ、わたし、ホントに大丈夫だから……」
「うるさい!」

俊がどんな連絡をとろうとしているのか。それくらいは、熱でゆだりそうな頭でも容易に判断がつく
慌てて止めようとした蘭世の方を見ることもなく一喝して
俊は素早くボタンを押した

「……おはようございます、真壁です。……はい…………、申し訳ないんですが
今日は休ませてください。妻が風邪をひいてしまったので……」
「…………!!」

初めて耳にする、彼の声で形作られたその単語にびくりと反応して
思わず蘭世は話し続けるその背中を凝視した

「……いや、大したことはないんですが……はい、はい……すみません……」
「………………」

用件を話し終え、静かに受話器を置き振り返った彼の目線と
それを凝視し続けた蘭世の視線はばっちりぶつかり
熱のせいだけではなく真っ赤に紅潮した頬を、必死で押さえた

「なんだよ」
「あ……う、い、いま……つつつ、つ、妻、って……」
「……他になんて言うんだよ……。すくなくとも“旦那”じゃねえだろ」
「そ、それはそうなんだけど……」

自分がまぎれもなく“それ”であることを、忘れるはずはない
けれど改めて示されてしまうと、このうえない幸せを感じると同時に
怒涛のように、気恥ずかしさが押し寄せる
真実を確かめるのが恐ろしく、測ることすらできない体温が、ますます上がってしまいそうだ

「…………お、おれだって恥ずかしいんだよ! んな、まじまじ見んなっ」
「ひゃっ」

彼は着ていたシャツを脱ぎ蘭世の肩に羽織らせ、再び抱き上げ寝室へとその身を運んだ







ここ最近───特に夜と朝は、ぐっと冷え込むようになった
終始、寒さになど意識がいかないくらい、あますところなくしつこいまでに攻め入ったつもりだし
その後も、逃さないように包み込むように抱きしめつつ眠りについたつもりだったのだけれど
…………やはり、羽目を外しすぎたということだろうか

静かにベッドへと彼女を降ろしつつ、俊は、真夜中の自分のあれこれを思い起こし
ぐったりとため息をついた

そのため息の意図を勘違いしたのか、おずおずと蘭世は切り出す

「あ、あの……ごめん、なさい……」
「え?」
「体調崩したりして……。しかも、休ませちゃったし……」
「バカ、そんなことはいいんだよ」

きょろりと部屋を見回し、俊は蘭世のパジャマを見つけてそれを手に取る
着替えさせるべく、胸元のボタンに俊が手を掛けた瞬間、慌てて蘭世はそれをとどめた

「あ……だ、駄目!」
「は?」

──────いくらなんでも、この期に及んで弱りきった彼女に襲いかかるほど
朝っぱらから飢えているわけではないのだが
(そしてその手の欲求は、昨夜の時点で満たしていた。…………ある程度は)
そこまで信用がないのかと地味に凹まされつつ見返した俊の顔を、まっすぐに見つめて蘭世は
大まじめな顔で言った

「まだ、あなた、ごはん食べてないでしょう?」
「………………」

──────なぜ、この期に及んで、こんなにも

「ああっ! そういえばごはんもほったらかしで来ちゃった!
ごめんなさい、すぐ、よそい直すから……。ああ、それに後かたづけもっっ」
「…………そんなことくらい、勝手にやるから……。ついでに洗濯機も回しとくし」
「そ、そんなの駄目よ! だって…………」
「あの、なあ」
「!!」

ため息まじりの静かな呼び掛けに、蘭世の言葉は一瞬途切れた

「とりあえず今は、体を治せ。…………頼むから」
「………………。……はい……」

そして、諭すような俊の声音に、ようやく観念して、彼女は俊の手に衣服をまかせる
口はよく回っていたが、それだけでもひどく疲れてしまったのだろう
色違いのパジャマを身につけさせ、布団を掛けてやった瞬間、彼女は
はふっとあたたかな息をもらした





さっき当てたばかりのタオルは、額の熱を吸い取り、すっかりぬるくなってしまっていた
水に泳がせて固く絞り、うっすらとこめかみに浮いた汗を拭うと
安心したせいなのかどうなのか、朝よりもずっと赤く染まった顔で、蘭世は笑った

「……気持ちいい…………」
「…………ん」

自分の手に秘められた治癒能力を使えば、この程度の熱を下げることなど、いともたやすいこと
けれど、命にかかわるほどの病や怪我でもないかぎり、能力の濫用は避けるべきなのだと
以前、彼は母にそれとなく言い含められていた

すなわち、抵抗力の問題
その寿命が、それこそ果てなく長い自分たちにとって、その内に秘める魔力はもちろんのこと
身体そのものの能力の高さ・芯の強さが不可欠なものとなる
そのためには、ある程度の症状に身を置き、その耐性を適度に備える必要があり

──────故に俊はいま、腹立たしいまでに歯がゆかった
苦しみから救い上げる手だてを持っていながら、それを施すことができないというのは
あまりにも辛い。相手が相手であるだけに、なおさら

「すまん…………」
「……やだ、なんであなたがあやまるの……。わたしこそ、ごめんなさい……」
「…………………」
「…………ふふ」

床に座りこんだ俊の方へ心持ち体を反転させつつ布団から覗かせた指を、そっととる
いつもは冷たいくらいの指先は、先刻、体温計が示した数値をそのまま素直に映し出していた

「…………ごはん、食べてね……?」
「ああ……。もう少ししたら、な。…………それより、おまえも何か腹に入れねえとな
牛乳温めてきたけど……もっとしっかり食えそうか? それなら……」
「……うん……でも、ちょっと……だめ、かも……。ミルク、いただきます……」
「そうか……」

ゆっくりと抱き起こし、ほかほかのマグカップを手渡す
こくんとひと口飲みこむと、蘭世は心から幸せそうに笑った

「おいしい……」
「…………………」

夜よりは幾分あたたかくなり始めたとはいえ、パジャマしか着ていない肩をむき出しにしているのは
なんとなく気になり、俊は再びシャツを羽織らせた
そのついでに、なにもかもやりっぱなしのキッチンを何とかするべく、その場を去ろうとする

「向こう、片付けてくるから……」
「!! ………だ、だめ…………!!」
「うわ」

その瞬間、肩に置かれていた俊の手を蘭世は慌てて引き止める
取り落としそうになったマグカップをもう一方の手で押さえながら見やると
なぜかその顔は、泣きそうな表情へとすりかわっていた

「…………お、おい……」
「……わ、わかってるの……ほったらかしにしとくと洗うの大変だなって、こと……も……。でも……」
「…………………」
「………っでも、もうちょっとだけ……そばに、いて…………?」



ナニナニを、カニカニして欲しい
彼女が、そんな直接的な要求を口にすることは、本当に珍しい



一時は、体調が悪いことすら隠そうとしていたというのに、今こうして自分がここにいることで
その箍が外れてしまったということなのか、どうなのか
いずれにしても、自分が彼女に頼られているということを示すその言動は
不謹慎ながらも、単純に嬉しいというのが正直なところ
浮かせた腰を再び元の位置に戻しつつ、俊は蘭世の髪を静かに撫でた

「……わかったよ、ここにいるから……。けど、もうちょっとしたら、ちゃんと寝るんだぞ」
「う、うん……!」
「とりあえず、それ、飲め」
「んっ」

こくこくと頷きながら必死にミルクを飲むその姿に、思わず吹き出しそうになる





うってかわって、苦々しい顔で薬を飲むのを見届けつつ、布団を掛け直しながら俊は
じっと自分を見つめる彼女に、いたずらっぽい口調で問いかけた

「……他に、なにかご要望は?」
「………………………」
「今のうちに言っとけよ? 今なら、とんでもないことまで聞いちまうかもしれねえからな」

何かを考えるように首をかしげ、結局“無”の意味でふるふると首を振り
再び蘭世は布団から指をそっと覗かせ、俊の指に絡めた
つくづく、そういった動作に弱い───俊は胸のうちでひそかにため息をつく



熱に魘されているのは、彼女だけではないのかもしれない
けれど自分が溺れるその熱は、きっと冷めることなどないのだろう



緩みすぎないよう頬の筋肉を押さえつつ、その指にもう一方の手を重ねた俊に
火照った頬と潤む瞳を向けたまま、蘭世は静かに微笑んだ