・玉蔓:蔓の美称。つる草の総称。


* * * * *







「いい加減泣きやめよなあ……。おれが悪者だと思われるだろう」
「……っく。ごめんなさい、だ、……って、さ、寂しいんだものぅ……」

と、真っ赤になった鼻の頭を押さえながら蘭世は申し訳なさそうにそう言うと
ずぶぬれのハンカチ(絞ったら涙がしみ出て来そうだ)を鞄にしまい、かわりに新しいハンカチを取り出した
彼女が今日駄目にしたハンカチは、先刻までのそれですでに三枚目
きちんと何枚も用意してきているあたり、自身の貯水率をしっかり把握しているらしい
今日に限りポケットに二枚しのばせてきたハンカチを探りながら、俊は肩をすくめた

ああは言ってみたものの。俊としては、彼女が泣くのを、そこまで深刻に止めさせたかったわけではない
平日の真っ昼間である時間帯だけあって、人通りは決して多くはないし
巣立ちの時期であるこの季節・制服についた花のリボン・そして手には黒い丸筒……と、きっちり三拍子揃っている以上
見ず知らずの輩に、泣く理由を曲解されることもないだろう(その涙の出かたが尋常ではない点には懸念が残るが)

なので、電信柱にぶつかったりしない限り、声が枯れない程度に名残を惜しんでくれればいいと思う。───が
校舎をあとにしてからというものずっと宙ぶらりん、持てあまし気味になったこの手を
未だつなぐことすらできないというのは、勘弁してほしいところではあった
折角、あらぬ下心及びそれなりの上心を持ちつつ、別れの輪からさくっとずらかってきたというのに

「(…………まあ、仕方ねえか……)」

俊自身、すでに諦めモードであったりもする
なぜなら今日は卒業式。いまはその帰り道なのだ

そうか卒業というものは、元来、感慨深いものの筈なのだと
あとからあとから飽きもせず零れ落ちる彼女の涙を見ながら、改めて俊は思い至った
しかし、全くの他人事であるかのように感じられる今の気持ちを拭い去ることは、できそうにない
晴れてプロボクサーとなり、輝かしい実績を着々と挙げるその一方、単位取得に要する最低日数───
しかも、カリキュラム組み替えやら補習やら、数々の裏手段を駆使した上での───しか出席していない自分と
ほぼ毎日出席し、学生生活を満喫していたであろう彼女。結局のところ、その差なのだろうと思う

一時は、中退することも考えた
そんな自分が今日こうして、彼女と同じ日付入りの卒業証書を手にすることができたのは
毎日の弁当とともに届けられた彼女のノートのおかげ
ここでさらに、卒業する自分(たち)への感動・感傷までをも一手に請け負わせてしまうのは流石に気が引けるのだが
物事には、向き不向きというものがある
どうか存分に泣いてくださいというのが自分の、実は本音のホンネであったかもしれない

「───あ」

そちらに意識をやりつつ、俊は視線をずらす
通りに面した公園に植えられた、一本の桜の木。見事な枝ぶりのうち、最も陽当たりが良いと思われる一点で
視界のピントがカシャリと合った

「…………おい」
「……っく、え……?」
「桜、咲いてんぞ」
「ええっ!? ……ど、どこどこ!?」
「あれ」

と、蘭世は、俊の指差す方向へじっと目を凝らした。枝の先にひとつだけ綻んだ、薄いピンクの花をすぐに見つけ
泣くのも忘れて、ぴょんぴょんと跳ね回る

「うわ───! ホントだあっ。すごいね、春だねえっっ」
「(……単純……)……そうだな」

確かに、今年の開花は早い早いと言っていたけれど
ふたりの住むこの街に、桜前線が押し寄せるのはもうすこし後の予想だった
卒業式よりもむしろ、入学式を祝って咲く筈の花を見つけてしまったのだから
彼女が興奮するのも、ある意味無理もない話であり
それをじっと見つめる彼女の姿をチラ見するのも、俊にとっては悪くない話だった

そして。相手をチラ見しているのは、どうやら自分だけではなかったらしい
チラ見の“チラ”のタイミングが不意に重なったその瞬間、彼女はバツの悪そうな顔をしてすぐさま桜のほうを向き
妙な沈黙のあと、いたたまれなくなったのか再びこちらを向き直った

「なんだよ」
「う、ううん、そのう……。真壁くん、変わったね」
「え…………なにが」
「前は……花なんて、フーンって感じだったのに。今は」
「………………」

言葉を選ぶかのように言い放たれたその台詞は、意外といえば意外なもので、どう返してよいものか迷った

別に、突然花が好きになったというわけではない。自慢にもならないが、花なんて
桜とチューリップくらいしか、未だ名指すことはできない
しかも名称を覚えるに至ったそもそもの理由は、まだ素直だったころ歌っていた童謡だ
そして、細かな変化にいちいち気づくことができるほど、成長したというか、心に余裕ができたわけでもない
どうでもいいと思ってしまったが最後、徹底して無頓着になるのは相変わらずだし
それなりのイベントである筈の今日だって、まんまと朝寝坊し、立ち寄った彼女に起こされてようやく間に合ったくらいだ

絶えず思うのはただひとつ。───『例えばこうしたなら、彼女は』
喜ぶ顔が見たい。自分の所作ひとつで喜んでくれるならなお嬉しい
だからいつも、彼女が好みそうな物事においてのみ限定で、敏感になる。それだけだ

「人を、情緒の欠片もねえ奴みてえに言うな」
「そういう意味じゃないよう〜〜。うれしいなって、思っただけっ」
「…………フン」

どこまで自分を判ったうえで彼女は、そんなことを言っているのか。邪気なくにこにこと笑うその顔からは読み取れない
俊は鼻を鳴らしながら蘭世の証書の丸筒を無理矢理奪い取り、ようやく空いたその手を握った