・忘れ貝:離れ離れになった二枚貝の片方。これを拾うと恋しい人を忘れられると言う。
* * * * *
あれから力は、休みのたびにうちへやってくるようになった
開口一番の“今日はドライブ日和だな”の台詞のもと、助手席へ乗せられた車が向かうのは、海
“恋人同士といえば海だろう”だって。なによそのベタベタなセッティング。そして誰と誰が恋人同士よ
───まあ別に、他の用事もないからつきあってあげるけど
でもそれは、人の運転する車の窓から海を眺めるのもいいかなって、気まぐれに思ってしまっただけ
せっかくのお休みだというのに、いつも平日並の早さで起きて
きちんとメイクをしておくのがもはや習慣になってしまったのも
けっしてあんたがやって来るのを楽しみにしてるからとか、そんなんじゃない。ないというのに
「なあ、おれたちきっとうまくいくと思うんだよな」
「………………」
どこへ行ってもなにを見てもなにを食べても、ふたことめにはこればかり
「言っときますけどね……そもそも捨てられたのはわたしのほうなのよ?
それを、どのツラさげてそういうこと言えるわけ?」
「……あ、あのときは……魔がさしたとしか……」
いつもだったら、そんな台詞も適当に流して終わり。それなのに
なぜか今日は食い下がってしまった。夏の暑さのせいかもね
力はといえば、わたしと同じヤクザの息子のくせに、やけに弱気な顔をして、その答えもしどろもどろ
───“魔が差した”なんて都合の良い言葉。けれどそれはわたしも一緒だ
現にあのあとも、それまでと何ら変わることなく彼を追ったのだから
じゃあ、魔がさした同士、すぱっと、なかったことにしましょう。それでいいじゃないの
「あのときのことは、なんて言やいいのか……すま」
「別に、謝らなくていいわよ。それに……ひっこみがつかないからってことなら
それも気にしなくていいから」
「え」
きっかけは、本人たちの種すらなかった頃に交わされた、親同士の夢見がちな約束
聞こえは良いわね───生まれながらの婚約者、運命の人
それを信じて今まで生きてきたっていうんだから、あんた相当おめでたいわよ
ふたを開けてみれば、相手は、こんな可愛げのない女だったのに
そのわたしを切ることは、あんたの今までの人生を全否定するってことに
なるのかもしれないわね。でも、もういいでしょう、いいって言ってよ。でないと
「……おれは、神谷曜子に笑っててほしい。それだけだ」
やめてよ。そんな、捨てられた子犬みたいな目で見るの
ひっこみがつかなかったのは、わたしのほう。ある意味、似てるのよね、わたしたち
追って追って追い続けて、退き際を見つけることができなかった
だって、彼を追いかけるそのことがただ楽しくて。三人でいる、その空間がとても居心地良くて
彼の目が誰を追っているのか、それすらも気づくことができないくらいに。気づかないふりをし通してしまうくらいに
──────本当に、好きだったのよ
本当に好きだったから。あのときは、しつこく迫ってくるあんたを、ふざけんなって思ってた
それが、今───ふたりとひとりの図式が確定してしまった今───は、たったひとことでこんなにも簡単に揺れてる
わたしはそんなずるい女なのよ。それくらい早く気づいてよ
「おあいにくさま。別にあんたに笑わせてもらわなくたって、じゅうぶん楽しい人生を送ってるわよ」
「…………惚れた女の笑顔が本気かどうかくらい、判る」
「………………」
……だから! そういう、心の奥底を見透かすような台詞に弱いんだってば
あのときもそれにだまされたのよ。だって、わたしのことをそんなにまっすぐに見てくれるひとなんて、いなかったから
ただでさえぐらぐら傾いて、あんたのほうへ倒れてしまいそうなところに、狙いすましたかのようにそんな台詞だなんて
ずるいわよ。判ってて言ってるの?
──────涙が、出てしまうじゃない
「なんて……ちょっとカッコつけすぎたか……って、うわ!?」
「み……見るんじゃない、わよ……」
ぼろぼろこぼれ落ちるわたしの涙に、おろおろしながら差し出したのは、ティッシュの箱
……確かに、それなりのものを使っているみたいだし、一枚一枚すっごくやわらかくていい感じよ
でもね。涙する美女と車の中───イコール密室でふたりきり、成金趣味のやたらデカイ車はダテじゃないんだから
流して流されてしまえば、きっと話は早いのに
こんな絶好のチャンスだってのに、触れてもこない。女の扱いなんて、ホントは慣れてるくせに
───判ってるわよ、あんたって、そういう奴
心の隙間にはぐいぐい割り込んでくるくせに、弱みには決してつけいってきたりしない
ああもう、なんて男。やさしすぎるのよ。愛すべき、バカ
「い……いいから早く走らせなさいよっっ」
「うわ! わ、わかったっっ」
バカ正直に、泣いてるわたしに背を向けて窓の外を見てるその頭にティッシュの箱を投げつける。ぱこん。あ、いい音
あわててアクセルを踏み込んで、加速。他の車の合間をぬうように、すりぬけながらどんどん追い越して
調子に乗るだろうから絶対口には出さないけど、力、あんたの運転は巧いと思うわ。ううん、結構好きよ
流れていく景色に、少しずつ胸の痛みが溶けていく。忘れさせてくれるのは、ただひとり、あんたしかいないということも
ホントはとっくに判ってる
だからもっと、早く走って。巧くだまして。他のなにもかもが見えなくなっちゃうくらいに