01:その場の勢いで
「……真壁くんのおともだちが、体をこわしちゃったりしたらいやだなって思ったの」
しょんぼりと肩を落としながらの彼女の言葉に、俊は
そもそもの発端は、とある日の自分の言葉だったのだということに気がついた
インスタントラーメンや、いいとこカレーを作れる程度。それ以上の料理は
失敗する確率と、もれなくついてくる(或いは“増える”)後片付けにとられる時間と
万が一成功した場合でも、どの程度の味的達成率を得られるか───等々
厳選なる費用対効果の算定の結果、そもそもやる気すら起こらない一人暮らしの者にはあるまじき
栄養バランスも味もそして見た目もほぼ完璧に近い食事を、ありがたくいただいていたときのこと
「……うちのジムの……特にあとから入ってきた奴らは
結構ムチャクチャな食生活してるんだよな。そういえば」
「え? ムチャクチャって……! あんなに毎日トレーニングしてるのに……」
「まあ、試合までに体を絞ることが先決で、その後なんとかすればいいっていう……
ひとりひとりにちゃんとしたトレーナーがついてるわけじゃねえしな
実際おれも、そんな感覚でやってたころがあったし」
「………………」
けれど今の自分は。そこいらの専門者も裸足で逃げ出しそうなほど、気配り目配りの行き届いた彼女の料理のおかげで
とても助かっている───感謝している。そう言いたかったが故の遠まわしな表現だったのだが
ただひとりを愛するその深さには劣るものの、博愛精神も人並以上に旺盛な彼女の耳を通り思考回路を抜けた結果
その趣旨は、意図したものとほんの少し逸れてしまったらしい
それを知ったのは、今日の、そろそろお昼の休憩を取ろうかと皆が思い始める時間帯
差し入れと称し、両手ひと抱え分もある料理の詰め合わせを、彼女がジムへ届けに来たその瞬間だった
今夜はバイトもないから、トレーニングが終わったその後は一緒に過ごそう
前々から約束をしていた今日という日、さらにいつもより一食多く彼女の料理を味わえるだなんて、贅沢の極み
───の、筈なのに。イライラした。何にって、色々なことに対してだ
結果、いつもどおりにこにこと花のような微笑みを称えながら自分を出迎え、部屋のすり切れた畳に腰を降ろした彼女に
開口一番言い放ってしまった言葉は
「……ああいうこと、すんなよな。あまり言いたくねえけど……余計なお世話なんだよ」
それに対する彼女の返事が、冒頭の言葉だった
02:傷ついたような、その瞳
「けど、いつもいつもこんなふうに面倒が見れるわけじゃねえだろう?」
「…………そ、それは、そうなんだけど……!」
「だったら。……自分を調整する方法を身につけるってことも、あいつらには必要なんだよ
最後まで責任は持てねえんだから、最初から放っておけって話」
「………………!」
『それでも』 そう言葉を継ごうとしたのが判った。けれどそれは失敗に終わり
パキリと固まった表情の中、俊を凝視し見開かれた瞳だけが、着々と自己主張を始めていた
そんなことを言っている状況ではないのだが、それにしても大きな瞳だと思う
じわりと込み上げた涙が表面張力の限界まで溜まり、これでもかと言わんばかりにうるうると揺れたりすると
ふと、その場の状況を忘れかけてしまったりする
そういう意味でも、最近はとみに気をつけ、泣かせたりしないようにしていたつもりだった
泣かせたくないと言いながら実は、泣きそうになったその瞬間の瞳に魅了されているだなんて、問題ありすぎだ
大概、自分のほうに原因があるというのに。現に、今だって
だからタイミングが遅れる。行動を起こせるようになるのはいつも、真珠の涙が零れ落ちてしまってから
非を認めたくないわけではなく、単純に、見蕩れている時間が長すぎるのだ
何をやっているんだ自分は───そんな自覚もある。けれど、こればかりはどうにもこうにも
03:向けられた背中
「………………」
「あ」
だが今日に関しては。涙が零れるその前に、彼女は立ち上がってしまった
無言のまま、質素な台所へと向かう。カチリと火を点けたコンロには、小ぶりの両手鍋がひとつ
先日から嬉しそうに宣言していた今夜のメニューは、ロールキャベツ
いつものお弁当宅配便ではちょっぴり無理があるから、この時期のキャベツは煮込み料理に向いているから
併せて示された説明のうち、後者については、そのこだわりが俊にはよく判らなかったけれど
この日・この時期ならではの“特別”を楽しみ、楽しませてくれる それが嬉しかった
───のに。現状は、このていたらく。俊の座る居間に対し、流し台はちょうど真正面の位置にあり
そこに立つ彼女は必然的に、こちらに背中を向けた格好になる
通常であれば、空きっ腹を撫でつつ、おいしい料理の完成を今か今かと待つのと同時に
時たまこちらを向き語りかけはするものの、意識の半分は流し台に持っていかれているその隙に
こっそりと忍び寄りいたずらをする機会を伺いながら(そして九割がた実践に至っている)
眺めている筈のその細い背中が、今日は冷たい
04:一瞬たりともこちらを見てくれない
ことことと鍋の煮立つ音が、こちらにも聞こえ始める。彼女が蓋を開けると、スープのやさしい香りも漂ってきた
彼女は目元をそっと拭い、カップに用意してあった赤いもの───俊はトマト風味が好きだった───を入れ
軽く煮汁をかき混ぜる。その瞬間、米を炊き上げ蒸らし状態に入っていた炊飯ジャーが、“あと10分”を示す電子音を立てた
自分の背後には何もない、誰もいない。そう“意識しているとも思えないくらい自然に”
彼女はひとりの動作を続けている
冷蔵庫からパセリを取り出すときも、棚に並ぶ数少ない食器から使えそうなものを吟味するときも
まっすぐ前だけを見、こちらをちらとも振り返ろうとはしなかった
あからさまな不快感を直接示されるよりもむしろ、今のような状況のほうが、きつい
とはいえ、それを更に責めるような言葉を吐けよう筈もなかった。なぜならちゃんと判っているからだ
例のごとく、非が自分だけにあることを
全くの善意のみで彼女が起こした行動を、肝心の部分はひた隠しにしたうえで
真っ向から全面否定するような言葉のみを投げつけてしまったのだから
いつまでもこの状態のままは、まずい。取り返しのつかない事態になりかねない
心持ち腰を浮かしかけた俊のほうをやはり見ることなく、彼女はコンロの火を止め
温度のない言葉を切り出した
「……ごはん、できあがったから……食べてね」
「え?」
「それと、昨日の夜のお弁当箱……持っていくから」
05:仲直りの方法
「…………え、っと……」
一瞬、頭が真っ白になった
ごはんを“食べよう”ではなく“食べてね”。そして、弁当箱を“持っていく”
このふたつの単語が意味するところは、ただひとつ
いつの日からか、台所の隅っこに掛けられるようになった、彼女専用のエプロンを脱ぎ
元の場所に掛け直していることからも、それは明らか
今夜はバイトもないから、トレーニングが終わったその後は一緒に過ごそう───それは決して
トレーニング終了後、夕飯ができるまでのわずかばかりの時間を、共にしようという意味ではない
もちろん、おいしい夕飯も重要な要素ではあるのだけれど、いちばん大切なのは
そのとき、そしてその後のひとときに、彼女が隣にいてくれるということだ
聴いていたい。彼女の持つ、耳に心地よい声を
そして、触れていたい。彼女の持つ、居心地のよい空気に。そして、彼女のやわらかな肌に
そんなある意味シンプルな欲求は、彼女自身、わかってくれているはず
というよりも、より正確にいえば、バレているはず
それでもなお『帰る』と言い、黙々と上着を着始めたりするということは、相当なものだ
───この期に及んでも、彼女が自分の希望を優先してくれるはずなのにと思ってしまうあたり
我ながらどうかと思うのだけれど
「か……帰る、のか?」
「うん。……後片付けできなくて、ごめんなさい」
「そういう意味じゃ、ねえって…………」
そして、彼女にぶつけてしまった言葉の真意も本当は、言葉どおりのものではない
“あとから入ってきた奴ら”すなわち、経験の浅い者たちに対して
俊だって鬼ではない。助言すべき点はするし、ときに具体的な方法を示してやる場合もある
けれど、最終的には自分自身で何とかしなければいけない部分というのも、確かにあるのだ
最たるものが、フィジカル・メンタルのいずれを問わず、自己を管理するということ
しかしそれは、いちばん判りやすいものであると同時に、後回しにしてしまいがちな部分でもある
その重要性を教え込むには、身をもって知らしめるという荒業も、ときに有用であったりして
過程状況である今の時期、残念ながら部外者である彼女に、ああいった行動を起こされてしまうのは
いろいろな意味でまずいのだ。だから、制しようと思った
けれどあのときの自分は、そんな細かな事情まで説明しなかった
あんな情報を流してしまったら、彼女がどう感じるか。そこまで思いを馳せることができなかった
それは自分のひとつめのミス
結果、彼女にしてみれば善意のカタマリ、むしろ自分に褒められてもいいくらいの
(そもそも彼女は自分にそれを強要するような考えは持ち合わせていないけれど)行動であったのに
彼女の心を頭ごなしに打ち砕くような言葉を投げつけてしまった
それはふたつめのミス
「…………なあ、こっち向けよ」
「………………」
「江藤……」
「やっ…………!」
たまりかねて呼びかけた自分の声に、彼女はにべもなく首を振る
そればかりか、にじり寄った自分の腕から逃れるように立ち上がり、こちらに背を向け立ち尽くす
「……真壁くんのほう、向いたら」
「え?」
「ま、かべくんのほう……向いたら……。泣いちゃうもん、わたし……」
「………………!」
“泣いちゃう”ではなく、すでに頬を伝い落ちていることくらい、顔を見なくても判った
そっと手を伸ばし肩に触れると、びくりと目に見えるほど大きく震わせ
彼女は、それまで堪えていた嗚咽の声を漏らし始める
「ごめんなさい……勝手なことして、ごめんなさい。わたしが悪いって、ちゃんと判ってるの
でも、涙がね。と、止まってくれそうにないから……今日は、帰、る……」
「…………江藤っっ……!!」
みっつめのミスは、あれがこれがというわけではなく、自分の性格。根本的な問題だ
彼女がジムへやってきて、大きなタッパーを広げ皆にひととおり勧めたあと
すぐさまその場を後にしたほんのわずかの時間のうちに
いったいどれだけの好意的な視線が彼女に注がれただろう
彼女の、見ているだけで幸せになる微笑みと、相手を問わない気遣い・行動は
自分の恋人であるが故に、望みはない。そう頭では理解している者ですらも
勘違い、或いは、その場かぎりの甘い夢を見てしまったりするのだ
彼女は自分だけのもの。心も体も、すべて。それを、例えいっときだとしても
そんな輩のおかずにされてしまうなんて、もってのほか
そして極めつけが、これだ。何が哀しくて、彼女の手料理を他の野郎共に振舞ってやらねばならないのか
自分はいつも、それに会うために働き鍛える───いわば日々の糧にしているようなものだ
実際に食するときも、ひと口ひと口をゆっくりと噛み締めるようにしていただいているというのに
そんなありがたみも何もなくあいつらは、飢えにまかせて先を争いガツガツと平らげてしまった
あのとき、彼女を連れてさっさと帰りたい、或いは全ての料理を回収してやりたい衝動を
抑えることができたのが、我ながら不思議なくらいだ
不思議なだけあって、溜まりに溜まった鬱憤は全て彼女に向かってしまった
自分の心の狭さに対して感じた嫌気も、ひっくるめて。……ただの八つ当たりだ
「そうじゃないから……。悪いのは、おれのほうだ。すまん……」
「!? ち、違うよっ。わたしが……! そ、そんなにやさしくしちゃ、やだ…………」
「………………っっ」
俊は首を振りながら、彼女を背中から抱きしめる腕の力を強めた
それは咄嗟にうまい言葉をうまく出せない彼なりの、せいいっぱいの表現だった
とうとう声を上げて泣き出した彼女に、否定の意はどこまで伝わっただろうか
それともやはり、彼女自身を責める涙のままなのか───多分きっと、後者なのだろう
少しずつ、少しずつ。彼女の呼吸が落ち着いてゆくのを待つ
これだけ泣かせたにも係わらず、彼女の目を見て話すことができない自分の不甲斐なさを
痛いくらいに絡めた腕に隠し、俊はゆっくりと口を開く
「全部おれが悪いんだ。あのな…………」