その存在に、はじめて気づいたのは、もうずっと前の話
光にうっすらと透けるそのひとは、気がつくといつもそばにいて
おだやかな笑みをたたえ自分を見おろしていた







「も───! ぱぱもあいらもだいっきらいだ!」
「なにィ!? こら、卓! 待て!! ───って…うわ!」

あ──────ん!!
ようやく寝始めたっぽいあいらが、ぼくとぱぱの声にびっくりしてまた泣き出した声が聞こえる
うるさいうるさい。けどしらない。がんばってまたぱぱがあやせばいいじゃん

あいらなんて、きらいだ
あとからいきなり出てきたくせに、あさからばんまでワガモノガオで
ままのおっぱいをちゅうちゅうしてる
ぱぱはぱぱで、ひまさえあればままにかわってあいらをかまってる
やくそくしてたキャッチボールも、ぐずってるあいらをあやしてたせいで
ずーっとおそとに行けなくて、このじかん

あいらなんてだいっきらい
あいらばっかりかまってるぱぱは、もっときらい





“だいっきらい” そんな、口にすることそれ自体のほうが寂しい言葉を投げつけて
飛び出した先は、近所の公園のベンチ
本来なら今頃は、俊と二人でキャッチボールをして───
むしろ帰路に着いているくらいの予定だったのだ
ぐずぐずしているうちに、雲行きもあやしげな空模様
自分の心情をそのまま映し出したような空を、卓はぼうっと見上げる

昨日からの約束だった
久しぶりのお休みだから、それこそ一日中自分と遊んでもらうつもりだった。それなのに
わくわくする自分に、愛良を抱いた俊が言い放ったのは

『おまえは愛良の兄貴なんだから、もうちょっと待て』

そんなの、知らない。そうなりたい、などと自分が望んだわけじゃない
ちょうどよい頃合いの時間に、狙いすましたように泣き出した愛良のために
なぜ自分が我慢しなければいけないのか
───もしかしたら、自分は俊に嫌われてしまったということなのか

さまざまな思いが、胸の中で交錯する
結果、口から滑り落ちたのは“だいっきらい”

話しかけてみたいけれど、多分話しかけちゃいけないひとなんだろうな
ずっとそう思っていた相手に、今日に限って声を掛けてみようと思い立ったのは
これってワガママ? 家族以外の誰かにそう問うてみたかったからなのかもしれない



「───おじちゃん、だあれ?」
「! ………」

ほんの一瞬だけ、ゆらりと、その場の空気が揺れる
返事はないけれど、ここにきたときから感じていた気配の漂うほう――少し離れた木陰――を振り返ると
それまで吸っていた煙草をもみ消すカルロと目が合った

「おじちゃん、昔から今までずっと、ず───っと、ぼくのそばにいたでしょ」
「……見えていたのか」
「うん」

カルロはゆっくりと歩み寄り、卓のとなりに腰をおろす
おとこのひとなのに、きれいなひとだ───近くで改めて眺めてみてもその印象は変わらず
卓はまじまじとその姿を見つめる

「おまえ……わたしが怖くないのか」
「へ? あ、うん。ふしぎなものが見えちゃうのには、なれてるし……
あのね、ぼく、なんとかってひとの生まれかわりかもしれないんだって
それで、すっごくちからがつよいんだって。ままがいってた」

一瞬、カルロがくすりと笑う

「……そういうことは、あまり他の人に喋ってしまってはいけない、とも
言われていたんじゃないのか」
「あ。………えへへ」





日が落ちるのが、本当に早くなった
家を飛び出した時間ははっきりと覚えてはいないが、遅めのおやつを食べてまもないうちで
今、目の前の芝生に備えられた時計が指すのは16時半過ぎ
生憎の空模様も手伝って、空が夜になる準備を早々と始めている

子どもに帰宅を促す放送を遠くに聴きながら
ずっと自分を見ていたのだから、自分のすべてを知っているとは判っているけれど、言わずにはいられないとばかりに
それまでの自分の“我慢”の経緯を話す卓の言葉をカルロは静かに聴いていた

「───こうやって、いつもあいらばっかりひいきするんだ
今日だって、すっごくたのしみにしてたのにさっ」
「………そうか」
「おじちゃんも、ぼくのほうがワガママだって……思う?」
「…………」

(まがりなりにも子供相手だというのに)カルロのあまりにも薄い反応に不安になったのか
おそるおそるといった感じに、卓は本題を提示する
カルロにしてみれば、もともと子供という存在に慣れていないがため
卓が求めるような巧い反応をできなかったというだけなのだが

ほんの少し何か考える風を見せ、カルロは右てのひらを空に掲げる
その仕草を凝視する卓の視線をよそに、てのひらにどこからか林檎がひとつ現れる

「うわ!? どっから出したの!? すご───い! おじちゃん、手品師!?」
「手品師………。まあ、そんなところだ」

よもや、自分はかつてお前の母親に横恋慕していた、ああ安心していい、すでに死んでいるのだから
などと言い出せるわけもなく、カルロはただ苦笑する

「で………これをおまえの父親の心としよう」
「へ? ぱぱの……こころ?」

きょとんとした顔で見つめていた林檎が、ぱくんと半分に分かれていく

「そうだ。そして、こちらはラン……おまえの母親を想う分
こちらは、卓、おまえのことを想う分
きっとおまえが生まれたばかりのころは、こんな感じだったのだろう」
「…………」
「そして、今は……」

一方の林檎───ついさっき、卓の分と示された方が、カルロのてのひらの上でさらに分けられる
浮かんでいるのは、半分の大きさのものひとつと、さらにその半分の大きさのものがふたつ

「これが、おまえたちふたりの分となっているわけだ」

卓の小さなてのひらにそのふたつの林檎を渡す
おそろしいほど質感はないが、なんとなく、確かにそこにあるような気がして
あわてて卓は手のひらを広げる

「本来であれば、こちらをすこし切り取って、お前たちへの割りふりを増やせば済む話なのだが
残念ながらおまえのおとうさんは、そんなに器用ではない
………奴はそういう男だ」
「…………」

カルロのてのひら、そして自分のてのひらと
そこに位置する林檎のかけらに視線を辿らせながら浮かんできたのは
一も二もなくいわゆるラブラブな自分の両親の姿
“ごちそうさま”この言葉の別の用法を覚えるのもあまりに早かったように思う

「で、こっちはといえば、まだひとりではなにもできない赤ん坊だ
勿論、構いたくて仕方がないという気持ちもあるだろうが
日頃ひとりで面倒を見ているおまえの母親に代わって、休みの日くらいは自分が、と思い……
逆に、ひとりでなんでもできるようになったこっちを、ひとりの男と認めて頼りにしているわけだ
……あまりいじめないでやれ」

そういえば
不慣れな手つきで愛良をあやす俊を、蘭世は心の底からほっとした顔をして眺めていた
俊がかかりきりで空いた隙間を見取ったかのように、蘭世があれこれと気を遣ってくれるのは嬉しかったけれど
どうしても埋まることのなかった部分はあって

それを、“我慢しろ”と怒られたのではなくて、“ちょっと待て”と───

「ん───……もう。ぱぱってば、しょうがないなあっ」
「……そうだな」
「エヘ。───あ」

──────ぽつり
少しずつ胸のうちが晴れ渡っていくのとは裏腹に、空からは
ひとすじふたすじ雨が静かに落ちてくる
ふたりの座るベンチにも、揺れる木々の葉から雫が落ちて
半ズボンからのぞく膝小僧にはじけ散る
実体のないカルロの体を、雨は当たり前のようにすり抜けて
ベンチに小さなしみを作る

ぽつりぽつり、の音がぽつぽつぽつ、に変わり
落ちる雨が容易に目にとまるようになってきたころ
ふと、カルロの視界に青みがかかる
となりを見ると、卓がぐうっと手を伸ばして自分に小さな傘を差しかけていた

「……用意がいいな」
「うん! おでかけするときはまず空をみて、雲が多かったら
ぜったいに傘を持っていくんだぞって、ぱぱがいつも言ってるんだ」
「そうか」
「エヘ」

ちょっぴり誇らしげに、卓は微笑む
熱さも寒さも感じないある意味便利な体だから、雨の持つ冷たさも記憶でしか感じることはないのだけれど
なぜか今日の雨は、ほのかにあたたかい そんな気がした

「……だが、わたしは大丈夫だから」
「へ?」
「あそこでうろうろ誰かを探している、間抜けな男に差しかけてやるといい」
「………あ……」



そう言ってカルロが指をさすその先には、傘も差さずに肩を上下させ
きょろきょろとあたりを見回す男がひとり