そういえば魔界には海というものがなかった
そんなことに今更ながら気づいたのは
大学の講義そっちのけで犯罪的なまでに入れまくったアルバイトのシフト表に
ひとつだけぽっかりと空いた日の予定を決めたときだった

「海……ってところに行ってみたいんだけど」
「………」

泳ぐには遅すぎる、それどころか海風が吹き荒れてくそ寒いに決まっているこんな時期に
何もわざわざ海なんて行かなくても……、そう言い掛けて
けど、まあ、たまには
そういう、いわゆる普通の恋人同士のような時間を過ごすのも悪くないと
即座に思い直し、卓はココの申し出を受け入れた
表面上はそっけない態度を取りつつも
家からの経路やら所要時間やら、あれこれ考えをめぐらせながら



そんな、あたたかいようなくすぐったいような気持ちが
一瞬にして吹き飛ぶような喧嘩をしたのは
それから一週間後、今日より三日前のこと







ドンドンドンドンドンッ

「お───にいちゃんっ! 入るわよっ!」
「………ん……〜〜〜〜〜〜……」

これでもかと言わんばかりのノックの後、勢いよくドアを開け入り込んできた愛良に
同じくこれでもかと言わんばかりにゆさゆさと揺さぶられ
寝ぼけまなこで時計を見ると、十時を回ったところだった

約束の日である今日の今日まで、結局連絡を取らずじまいで
ふてくされ、悶々としながらもようやく寝に入ったのが明け方近くだったから
九時半にセットしておいたアラームの音に気づくことすらできなかったらしい

「おにいちゃん、そろそろ起きなきゃいけないんじゃないの〜? 出かけるんでしょ?」
「……………」

仏頂面のまま頭をかく
そう、本来であれば約束の時間は十時半に真壁家の前
あんな喧嘩さえしていなければ、今頃は、やはり表面上はそっけなさを装いつつ、実はしっかり準備をし終えて
部屋から降りていくタイミングを見計らう姿勢でいた(待っているだなんてことは絶対にしない)筈なのだ
けれど今は、その約束の実現すら危うくて

って
──────ん?

「……おまえ、なんでおれが今日出かけるって知ってんだ」
「ん───?」

カーテンを開け、まぶしい光を部屋に取り込みながら愛良はにやりと笑う

「え───、だって、下で待ってるもん、ココおねえちゃん」
「……なにィ──────!?」

がばっと飛び起き、取るものもとりあえず階段を駆け降りる
ドアを開けると、愛良の言葉どおりリビングで茶を飲むココの姿があった
中途半端にしめたボタンの続きをはめながら、卓は恐る恐る口を開く

「な……おまえ、なんで………」
「………………寝ぐせ」

そんな卓の姿をじろりと一瞥して、ココは自分のこめかみのあたりを指差し、卓のはねた髪を指摘した







「………これが、海」
「……………」

家からその海岸までは、電車でほぼ一時間
もともと口数が少ない方だとはいえ、ふたりでいればそれなりに何か喋ることもあるだろうし
揺られてしまえば一時間くらいどうってことないだろう───約束をした時点ではそう思っていたのだが
全く口を開かずに無言のまま揺られた一時間は、思いのほか辛かった
さほど混み合ってもいない席で、つかず離れずの距離を保ちながら隣で揺られていた相手は
目的地に着いた今この瞬間に至っても、黙りこくったままで
卓が指差した方向を、じっと見つめている

幸か不幸か、空は気持ちいいくらいに晴れ渡っているけれど
吹き抜ける風は流石にまだ冷たい
後ろにひとつ括った長い髪とリボンが揺れて
ゆるく巻かれたマフラーの隙間から見えるうなじが寒々しく思えた

「ただの……水なのね」
「へ? あ、そりゃ、まあ……」
「………同じ水なら、想いヶ池のほうが立派だわ」
「はあ? ……って、おい!」

ふいっと目をそらし、ココは砂浜を静かに進む
寄せては返す波の淵ぎりぎりに腰を下ろし、指先を海に遊ばせる

「水だけじゃなくて、このあたりだって……
魔界に比べたら、すっごく汚いわ。ごみがたくさん転がってるし」
「な……………っ」

その言葉にカチンときて、卓は思わず声を荒げた

「あのなあ……っていうかおまえ、いきなりそういうこと言うか、普通?
大体、元はといえばおまえが行きたいっていったんだろ!?」
「……確かにあのとき、海に行ってみたいって言ったのはわたしだけど
来てみて、改めて嫌いだって思ったのよっ」
「嫌いって…………」
「そうよ、嫌いよ! 海なんて嫌い! 人間界にあるものなんて、ぜ──────んぶ大ッ嫌い!!」
「うわ!?」

振り向きざまにかけられた水が、冷たいだけならまだしもまともに目に入ってしまい
卓が目元を押さえたのもものともせず、ばしゃばしゃとココは水をはじきまくった

「い……って───! お、おいココ、ちょっと、ま……」
「卓、あんたも大ッ嫌いよ! そうやっていつも、“おれは全然平気です”って顔して!」
「…………!?」
「ずっと前は、“練習があるから会えない”って言って
ちょっと前は、“受験だから、勉強しなきゃいけないから会えない”って言って
ようやく落ち着いたと思ったら、“こんどはびっちりバイト入れたから”って……!」
「お…………おい」
「わたしのこと、好きだって言ってくれたでしょう?
好きっていうことは、いつも会いたくなるってことじゃないの? 相手のことをいちばん大切に思うってことじゃないの?
卓にとって、わたしはいったい何番目なのよう………っっ」

うわ──────ん!
あえて言葉で表現するならこんな感じで、ココは子供のように泣き出した
一瞬あっけにとられつつも、慌てて気を取り直し
ポケットを探ってハンカチを取り出し、ぼろぼろとこぼれる涙を受け止めて
もがくように暴れるのを力任せに押さえて細い体を抱きしめる

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ」
「………………」





魔界と人間界と、移動するのは簡単だとはいえ
ほとんどの生活時間帯をアルバイトに費やしていたから
こちらにやってきたところで、会えない そう銘打ったうえで
一日おき、長くとも三日おきくらいの間隔で、夜、眠りにつく前の数分間テレパシーで会話するのが
ここ最近の習慣となっていた
会話といっても、お互い変わりはないかを確認しあう程度のものだったのだが

喧嘩の理由は、ほんの些細なこと
───だと、自分では思っていた

真相はといえば
そのテレパシーの途中で卓がうたたねをして、そのまま寝入ってしまい
次の日の早朝、真っ青な顔色で真壁家へやってきたココに対して
暢気にトーストをかじりつつ、“なにやってんだ、おまえ”と言い放ってしまったこと

“バ……バ……バ………、バカ──────!!”と、悲鳴にも似た声とともに
思いっきりクッションを投げつけられ、あとはお決まりの言い合いとなり
怒り狂って帰っていったココと、ある意味自業自得だとはいえそこまで怒られるのはやっぱり腑に落ちない自分と
お互い意地っ張りな性格であることも手伝って、歩み寄りの姿勢など生じるはずもなく───現在に至る

まがりなりにも好きな相手と話している真っ最中に舟を漕いでしまうほど
アルバイトに精を出した理由と言えば、ただひとつで
卓にとってみれば、それを実現させることこそがいわゆる愛の証だと思っていたのだが
目的を伝えていない以上、ココにしてみれば自分がないがしろにされているという印象しか残らず
とはいえ、最初から目的を伝えてしまうなどということは、卓の美意識に真っ向から反していて

けれど、腕の中のココは未だに泣き続けている
自分を目の前にしてもこれだけ泣くということは、ひとりのときはどれだけ涙に濡れたのだろうか
それを思うとやはり、足りないのは自分の配慮というかなんというか、で





再び、風が吹く
揺れる髪を押さえるように撫でて、卓は静かに口を開く

「………おれ、さ」
「……………?」
「うちを出ようかと思うんだよね」

その言葉に反応して、震えていたココの肩がひときわ大きく震える

「うちからだと大学通うのキツイし……って、そんなに行かねえんだけど……
まあとにかく、バイトをギツギツに入れてたのも、そんな理由で」
「…………」
「で、さ…………」

言いかけてその言葉を飲み込んで、また吐き出すように卓はひとつため息をつく
ひと気もないこの海岸に今響くのは、寄せては返す波の音だけ
ひとつ ふたつ それを数えてようやく卓はそのひとことをしぼり出す

「……おまえも、一緒に来ねえ?」

変わらず波が寄せては返す
卓の顔を見上げたココの前髪を、少しだけ強く吹いた風が揺らす