口笛に咲く花
その申し出は突然だった。『口笛の吹きかたを教えてください』
シュタルクはよく口笛を吹く。卵がうまく割れたとき。斧の手入れをしているとき。川の流れに浸かっているとき。街中で大道芸人が披露する大技に感銘を受けたとき。木の枝からひょっこりと顔を出したリスを呼び寄せるとき
そのうちどの瞬間を見てそんな気になったのかは分からない。わざわざシュタルクの鍛練の場・山の中までやって来たフェルンに真面目な顔で呼び止められたので、何事かと思いきや、用件はこれだ。口笛をうまく吹いてみたい。なるほど、そういえばフェルンが口笛を吹いているところは見たことがない
「フリーレン様も吹けるみたいだし、シュタルク様も吹けるのに、私だけ吹けないのがむかつきます。なんか楽しそうだし」
そう言いながらフェルンはむう、と頬を膨らませた
見たことがないというのは勘違いではなかった。「吹かない」のではなく「吹けない」らしい。そう本人が認識しているということは、一応やろうとしたことはあるというわけか。とはいえ
「フリーレンは知らないけど、フェルンは育ちがいいからそういう機会がなかっただけだろ……口笛なんて吹けたところでなんの得にも」
「むかつきます」
「その目やめてよぉ……」
フォローしたつもりが、なぜかめちゃくちゃ睨まれた
シュタルクがそうであるように、フェルンもまた自分の過去について特に多くは語らないが、彼女を養育したのは聖都の偉大な司教様だと聞いている。フリーレンがたまに思い出話という形で語る人物像とだいぶ印象が異なるのが若干気になるものの、いずれにしてもそんな清く正しい(はずの)人物との暮らしにおいて、口笛を吹く機会などなかっただろうし、そもそも口笛を吹くという発想自体なかったのではないか。まあ、未知なる存在に手を伸ばしたくなる探究心は分からなくもないが……
「あっ、猫でも呼び寄せたいとか?」
「シュタルク様を呼びつけます」
……だよね、そんな気がしてた!
安請け合いしたというかせざるを得なかったというか、それはまあさておくとして、教示すべき『口笛の吹きかた』とは?
シュタルクの場合、誰かに取り立てて尋ねた記憶はなく、気がつけばそれなりにいい音が出るようになっていた。なので、あさっての方を向きいったん心を無にして吹いてみたが、コツ的なものはいまいち良くわからなかった。仕方ない。分からないなりに、一緒に実践しながらの口笛教室を見切り発車で始めてみることにした
「じゃあ、あの……こう、口を窄めて」
「はい、…………」
と、素直にフェルンは口を窄める、というか尖らせる。なんだかちょっと違う気もするがとりあえずその隣に座り、見本としてシュタルクがひゅるりらと吹いてみせると、フェルンは一瞬おっ、という顔をした。続いて、見よう見まねで吹いたフェルンの口元から漏れ出たのは、息が抜けているのか間が抜けているのか半々の音だった。これはこれで味があるのだが……
「口はちょっとだけ開くんだけど……。あっ、舌の位置がわりと重要かも。下の前歯のうら、上下まんなかを意識してくっつけてみて」
「…………」
フェルンは無言でこくこくと頷く。次いで出てきたのは、響きにムラはあるものの、さっきよりも意思を感じられるようないい感じの音だ
ただ、それに気を良くしたのか、感覚を逃したくない焦りからなのか、少しずつフェルンの口元だけでなく全体的な姿勢が力んできた。息自体は十分に吸って吐いてしている筈なのに、なぜか酸欠状態のように苦しげに顔が紅潮していく。それに従って、笛の音もだんだん掠れていった。いや、ちょっと落ち着こ……?
「あの、そんなタコみたいに口を突き出さなくていいから」
「タコって! ひどい! こっちは真剣にやってるのに!」
これ言ったら怒るだろうな、ということをそのまま言ってみたら、やっぱり怒られた。これなら怒られないだろうということを口にしても怒られるのだから、そりゃそうだ
フェルンはシュタルクのほうに向き直し、口をますます尖らせ睨みつけてくる。まさにその状態のことを言っているのだ
「それは分かるけど、もうちょっと自然に……ほら、溜めた気をすこ~しずつ放出する感じでさ」
「そんなこと言われても、私は戦士じゃないからわかりません!」
「あいてっ」
まさに火に油。フェルンはとうとうキレ気味でシュタルクに正面からのし掛かり、ぽくぽくと殴ってきた。戦士じゃないのに意外と痛い
「じゃ、じゃああの……タンポポの綿毛飛ばすときみたいな感じでさ。こう、軽く優しく……」
「綿毛? ……こうですかっ」
シュタルクの顔を覗き込むように、あるいは正解かどうかを目視確認させるかのように、フェルンはシュタルクの両肩を掴み、目前にぐっと迫る。生え癖が分かるほど近い睫毛のすぐ下、大きな目でじっとシュタルクの口元を観察し、ようやく納得したらしい。舌の位置も含めて言ったとおりに整えたのであろうフェルンの薄く開いた唇から、ひゅるりと軽やかな音が響き、細い息がシュタルクの唇をかすめていった
「!! いい感じかも……?」
「…………」
フェルンは目を一瞬大きく見開き、嬉しげに吹き続ける
口笛を吹くときの顔なんてほぼほぼキス顔だし。初っ端から気づいてしまったからあまりそちらを見ないようにしていたのに、フェルンらしからぬおもしろ形態を次々と見せつけてくるから、ついその口元を見続けてしまった。ここに来て、至近距離でのそれはきつい。人の気も知らないでお気楽なメロディを辿り始めた桜色の唇に、ほんのすこし体を傾ければ届く。シュタルクの肩に添えられたままの手を引けば、唇をくすぐり続ける息だけじゃなく、もっといろいろ奥まで絡め合うことができるかも。でも
「……シュタルク様?」
「あっ」
「…………?」
「……ごめん、聴き入っちゃった。いい音出てる。フリーレンにも聴かせてあげれば」
「そうします! ありがとうございます!」
と、シュタルクの肩を支点に立ち上がり上機嫌で去っていくフェルンを、なんでもないような顔で手を振りながら見送った。いや、なんでもないような顔をできていたかは分からない。そのままずるずると崩れ落ち、シュタルクは地面に大の字で横たわる
無防備にこちらに身を預けてくる時点で、なんの脈も意識もないのは明らか。なのに、ことあるごとにいかがわしい目で見てしまうのを止められない。そのくせ、今の居心地のよさをぶち壊してしまうのが怖くて、手を伸ばすこともできない。ちょっと天然ですごく可愛い、けれどそれ以前に旅の仲間。玉砕したが最後、その後のすべてに影響が出る。そんな打算がないと言ったら嘘になる。けれどなにより、つい先刻のようなぱっと弾けた笑顔を見せてくれなくなったりしたら───
このまま余計なことはしないに限る。のに、そう戒めたそばから碌でもない想像ばかりぐるぐると頭を駆け巡る
「最悪だぁ……」
行き場を失くしたシュタルクの吐息が、深く、青く燻った