ドーナツの加護 おまけ
(3→)0→8→∞
0→8
「なあシュタルク、ドーナツの穴はなんのためにあると思う?」
どんどん揚げ続け、皿に山盛りとなっていくドーナツのうち、半分はシンプルに砂糖をまぶすのみとし、もう半分は蜂蜜やらジャムやらのグレーズで仕上げることとした
後者のコーティング作業はフェルンのセンスに任せることにし、シュタルクはできたてのシュガードーナツをテーブルに運ぶ。皿を置いてすぐキッチンへ戻ろうとする気配を感じ取ったのか、シュタルクが部屋の出口を向いた瞬間「先に食べててください、すぐ行きますから」とフェルンの声が飛んできた
そう言われても、どうしたものか。おとなしく席に着いたものの、作った者=大半の工程を指揮した者を差し置いてさっさと食べ始めるというのは、気がおけない間柄とはいえやはり気が引ける。それは他のふたりも同じ思いのようだった
その場に一瞬しんとした静けさが漂ったあと、ザインがシュタルクとドーナツとを交互に見やりながら問いかけてきた。それが冒頭の発言である。──即ち、ドーナツの穴の存在理由とは?
「穴? 知ってるぜ。火の通りを良くするためだろ?」
実は先刻シュタルクも、ドーナツを作るすがら、まったく同じ疑問をフェルンに投げかけたばかりだった。綺麗に丸めた生地に両側から指を差し込んで穴を開け、くるくる回して広げる……それ自体、楽しい工程ではあったが、なぜそもそも穴を開けるのか と
そのときフェルンがくれた答えをシュタルクはそのまま、自信満々で横流ししたのだが、ザインの反応は芳しいものではなかった
「まあ……そうだな。表面上はそういうことにされてるな」
「表面上?」
と、さらりと答えながらザインは、皿からドーナツをひとつ摘み上げる。手でいくにはまだ熱いと思うのだが、さほど動じていなさそうなのは、年の功なのか女神の加護か
「ドーナツは何でできてる?」
「へ? あ、ああ……粉、バター、卵、砂糖、牛乳……だったかな?」
「そんな、この世の“これ使っときゃ大体うまい”トップ5を揃えただけでも罪深いのに、そのうえ油で揚げちまうときた。言ってみれば、人間の欲望を具現化してるんだよな、ドーナツってやつは」
「そ、それは確かにそうかも……」
生地を成形するフェルン。油の中で踊るドーナツをひっくり返すフェルン。揚げたてのドーナツを綺麗に並べるフェルン。色とりどりのグレーズをせっせと塗りつけるフェルン……。どこの局面を思い起こしても、甘い匂いに包まれながらの、なんとも言えない幸せそうな顔! 欲望という言葉の聞こえは悪いが、あれを欲望に満ちたと言わずしてなにを欲望と言うのか
「……ザイン、それ以上はいけないよ。私たちがちゃんと見ていてあげれば済む話じゃない」
それまで黙っていたフリーレンが、たまらずといった態で身を乗り出した
「シュタルクだって、いつか真実を知る時が来る。だからそれまでは……フェルンのこともあるし」
「いや、言わせてくれフリーレン。身をもって知ることは大切なことだが、すべてを知ったうえで行動することで致命傷を防ぐというやりかたも時には必要だ。そして、こと、この件に関しては……うまくいけばいいが、そうでなかったときの危険性は俺以上によく知っているだろう?」
「それは……確かにね……」
「真実を知るのは早ければ早いほどいいと思う。出過ぎた真似をしてすまないが、ここは僧侶として……年長者としての務めを俺に果たさせてくれないか」
「……うん、そうだね。責任が重すぎて申し訳ないけど……お願いしようかな」
目の前に並んで座るふたりの間で、口を挟む隙もなく繰り広げられる応酬に、シュタルクは自然と背筋が伸びた。ドーナツの穴から始まった、軽い雑談のつもりで聞いていたこの話題が、思わぬ方向に進みつつあることは、本能的に感じとれる
ほどなくして、なにか覚悟を決めたように頷き合い、ザインとフリーレンはシュタルクの方に向き直った。そして一瞬、ちらりとキッチンを見やってから、おもむろにザインは口を開く
「シュタルク。これから言うことは、一度しか言わないからよく聞け」
「う、うん……」
「さっきもすこし触れたが……ドーナツ。これは言わば欲望の塊だ。そんなもんを惰性で食い続けたら、人はすぐ駄目になる。……欲望を貪っているつもりが、実は逆で、自ら作り上げた筈の欲望に飲み込まれてしまうんだ。気がつかないうちにな」
「えぇ……。なにそれ怖い……」
切々と訴えるザインのとなりで、フリーレンはじっとこちらを見つめながらゆっくりと頷く。表情の幅が狭いポーカーフェイスに、心持ち緊張が走っているように見えるのが、ただただ恐ろしかった
それなりに長い時を共に過ごしても、未だその『本気』が想像できないほどの大魔法使いが、僅かとはいえ動揺を見せるほどの力が、単なる菓子であるはずのドーナツに秘められていたとは
「だが心配するな。俺たちには強い味方がついてる。このドーナツの形をよく見てみろ。なにか数字が見えてこないか?」
と、ザインはドーナツの山からひとつを選んで摘む。そしてそれをモノクルのように左目の前に掲げると、右目をつむり、中央の穴から左目だけでこちらを覗き見た
「……! ゼロ……!?」
「そうだ、ドーナツの暴威をゼロにするのがこの穴だ。こいつがすべて解決する……すべてをリセットしてくれる」
「穴が……リセット……」
「そうだ。だが、ドーナツは何も考えず食べればドーナツのまま。欲望はリセットされず、体内に蓄積されていくんだ。ゼロの力を借りるには、それなりの気構えがいる」
「えっ、じゃあ……。もしかして、あまり食わないほうがいいとか?」
そんな真実はつゆ知らず。山盛りに作ってしまった、かつ未だこの場に出していないドーナツのもうひとつの山を思い、シュタルクはげんなりしてしまった。せっかく作ったのに。いやそれ以前に、そんな込み入った事情があるのなら、先に言ってくれればいいのに、と
「いや、そうじゃない。欲望はある程度必要だし、無欲に生きる人生なんて面白くないだろ? 清濁併せ呑む必要があるって話だ。徐々に、馴らしながらな」
「シュタルク。欲望は真ん中に集中していくものだからね。しばらくは0の形を意識して食べるようにするといいよ。……で、慣れてきたらもう一段階上のレベルを目指してみて」
「上?」
ザインの言葉の端々から、おおよそ僧侶らしくない香りがちらほら漂ってくるのが気になるところだが。フリーレンが畳み掛けるようにその言を引き取ったので、それどころではなくなった。上を目指す──即ち修行だ。望むところだ
諭すように喋りながらフリーレンもまたひとつドーナツを摘み上げる。それをザインが掲げるドーナツのすぐ上に添えた姿勢でキープし、意味ありげにこちらを見た
「私たちの場合はね、0をひとつじゃなくてふたつ……こう並べるイメージを常に思い浮かべることで、かろうじて心身の安定をはかってるんだ。シュタルク……これがなにを示しているか、すでに分かってるよね?」
シュタルクはすぐ気づいた。穴が空いたドーナツをふたつ縦に並べたこの形は、0同様、日頃からよく見る形だ
「8……だよな!?」
「そうだ。今後ドーナツを食べるときには、0と8を常に意識しとけ。なにか異状を感じたらすぐ俺かフリーレンに言うんだぞ」
「分かった!」
懸念はほぼほぼ解消され、対案もひととおり把握した。これで心置きなくドーナツを食べることができる・修行も兼ねて
ほっと胸をなでおろし、シュタルクは目の前のドーナツに手を伸ばす。ひとつ手に取り0を意識し、ふたつ並べて……まだシュタルクには早いのかもしれないが、8を唱えて。その姿を眺めながらザインとフリーレンもまた、顔を見合わせて静かに微笑んだのだった
8→∞
その部屋の緊迫していた空気がほんのすこし和んだように思えたころ、ザインは再び口を開く
「そしてフェルンの件だが……」
「あっ。そういえば、さっきなにか言いかけてたよな? フェルンがどうしたって?」
まだ、想像もつかないなにかがあるらしい。しかもフェルン限定で
シュタルクはドーナツを手にしたまま息を飲む。そういえば、促されるままキッチンを後にしてからしばらく経つが、フェルンをひとりにしてしまって本当に大丈夫だったのだろうか
「あの娘は……フェルンは、ドーナツの寵愛を一身に受けてるらしい」
「え?」
ドーナツの。
寵愛。
…………とは?
「……ごめん、どういうこと?」
「ああ、そうだな。これもちゃんとした説明が必要だよな……」
反芻してみたところで、ちょっと何言ってるか分からない。ストレートにそう顔に出てしまっていたのだろう。ザインはシュタルクを一瞥すると、再びフリーレンとなにか申し合わせるように頷き合い、苦笑しながらシュタルクの方へ向き直った
「俺たちが意識できるのは、せいぜい8までだ。だが……これを横に転がしてみたら、どうなる?」
ザインはフリーレンから引き取っていたドーナツを、左目のドーナツの上からスライドさせ、右目のすぐ前に掲げる。すると、両目の前にドーナツがふたつ並び、それまでの片眼鏡が普通の両眼鏡となった。──いや、この形はむしろ
「無限大……?」
「正解。あの娘はドーナツを食べることで、欲望を無限の魔力に変化することに成功しているんだ」
「ええ……!? フェルン、すげえ……!」
これまでの、何も知らないシュタルクはともかく、ザインやフリーレンまでもが恐れをなすドーナツの力。それを単独で防ぐどころか、自身の力に変換しているだなんて
共闘の場面でフェルンの能力の高さを思い知ることは多いし、フリーレンも常々フェルンのことを褒めている。分かっているつもりだったが、実例を挙げられると改めて実感させられる。本当にすごい魔法使いなのだ、フェルンは
「そうなんだよ。思い出してよ。ほら、オルデン卿の屋敷の客間でフェルン、常に両手にドーナツを持って……∞の構えでいたでしょ?」
「!! そういえば……そうだったかも……!」
「あれはフェルンにしかできない、ドーナツの加護を発動する魔法なんだよね」
むふー、とドヤりながら弟子自慢をする大魔法使いのすぐとなりで、破戒僧がたまらず吹き出したことに、シュタルクが気づくことはなかった
3をモノともしない∞
そんなこんなで第二弾・艶めくグレーズドーナツの山を運んできたフェルンもテーブルにつき、晴れていただきますの儀となった
待ってましたとばかりに飛びつく年長者ふたりと、ふたりに取り皿と手巾を勧めつつ自らも上機嫌な顔で手を伸ばすフェルン。彼らを尻目にシュタルクは、改めて手にしたドーナツに恐る恐る齧りつく
とろりと垂らされたグレーズがほどよく冷めて固まり、これまた売りに出せそうな絶品に仕上がっている。……筈なのに。シュタルクの舌にはその佳味がちっとも伝わってこない。フェルンがとなりに腰かけた瞬間に、唐突に思い出した場面が、頭から離れなくなってしまったからだ
「あの……フェルン?」
「はい?」
「大丈夫?」
おずおずと切り出したシュタルクに対し、フェルンは、『大丈夫』もなにも、安否確認されるいわれに全く覚えがないようだった。それまでの時間を思い起こすように一瞬遠い目をして、ようやく切り出されたのは
「あ、油酔いの話ですか? 私は慣れてますし」
「じゃ、なくて……。さっきの味見のときに、3にしちゃったから、大丈夫かなと思って……」
「え? 3? って……」
「8でも……∞でもなく……!」
そんな的外れの回答に、シュタルクは歯痒くなる。大丈夫かどうかが気がかりなのは、先刻こっそりふたりで味見したときのことだ
あのときフェルンは、躊躇うことなくドーナツを半分に割った
結果そこにあるのは0でも8でも∞でもない。「3」だ。いや、正確には3に「させてしまった」のだ。あろうことか、シュタルクにいちばんおいしいところを食べさせるために
「よく分かりませんが……。私はたぶん大丈夫なので、冷めないうちにどんどん食べてください」
「そっか……。やっぱりすごいな、フェルンは」
「??」
無念さに打ち震えるシュタルクに気づいているのかいないのか、フェルンはいつもとなんら変わらない口調でそう言った。その両手にはドーナツがひとつずつ、∞の形で構えられていたのだった